2019年12月24日火曜日

2019年12月の掲示板



 2019年も残すところあとわずかとなりました。「令和」という元号もすっかり慣れ、気が付けばその令和も2年になろうとしています。あっという間に駆け抜けてしまった2019年。けれども、その中にも温かい有難いご縁をたくさんいただいた1年でした。お育ての中に生かされてあることに感謝しつつ、また新しい年を迎えられるよう準備をしてまいりたいと思います。

 さて、今年最後の掲示板の言葉は、金子みすゞさんの『海とかもめ』という題のお詩です。掲示できる紙の大きさの都合上、全文を書くことができませんでしたが、掲示板には私が一番ドキリとした言葉を載せさせていただきました。全文は以下のようになっています。

  「 海は青いとおもってた、
    かもめは白いとおもってた。
    だのに、今見る、この海も、
    かもめの翅(はね)も、ねずみ色。
    みな知ってると思ってた、
    だけどもそれはうそでした。
    空は青いと知ってます、
    雪は白いと知ってます。
    みんな見てます、知ってます、
    けれどもそれもうそかしら。 」

 金子みすゞさんの鋭い洞察力によって見抜かれた、私たちの「当たり前」のもろさが詩の中で巧みに言い表されています。今の時代を生きる私たちにとっては、実際に「見える(分かる)」ことがとても重要になっています。けれども、私に「見えて(分かって)」いるものが本当(まこと)かどうか、あるいは「見えて(分かって)」いるものがすべてかどうかはよくよく注意をしないといけないのかもしれません。

 日中に晴れていれば「空は青い」です。けれども、夕方になれば空は茜色になりますし、夜になれば黒くなります。「雪」も同じことが言えます。「空が青い」ということは「うそ」とまでは言い切れないですが、それがすべてかと言われるとそうではありません。

 仏教では、どんなに周りの状況が変わっても変わらない言葉、そして必ず言葉のようになることを「まこと」と呼びます。それで言えば、「空は青い」ということは「まこと」ではないということになります。そうやって考えていくと、私たちの身の回りで見聞きすることは「まこと」ではないものばかりだということに気が付かされます。そのことを親鸞聖人は、「よろづのこと、みなもってそらごとたはごと、まことあることなき」(『歎異抄』後序)と言われたのでした。

 では、仏教である浄土真宗の「まこと」とは何か?というと、親鸞聖人が「ただ念仏のみぞまことにておはします。」(同上)と言われたように、「南無阿弥陀仏」のお念仏こそがどんなに周りの状況が変わっても変わらない「まこと」でありました。
 何が変わらないのか?と言えば、阿弥陀さまの仰せが変わらないのです。その仰せとは、「あなたのいのち、必ずお浄土に生まれさせ仏にならせてみせる。」というものです。この仰せは「まこと」ですから、必ずこの通りにならせていただくのです。

 そんな仰せが絶えず変わらず私のもとに「南無阿弥陀仏」という言葉となって届いてくださっているから、私たちは「まこと」に貫かれた、変わらない(うそではない)人生を歩ませていただくことができるのです。

 年が変わっても、時代が変わっても、そしてこの私が変わってしまっても決して変わらない「まこと」のお念仏、「南無阿弥陀仏」を大切に称(とな)えながら、過ごしてまいりたいと思います。

称名

誓林寺
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2019年11月28日木曜日

2019年11月の掲示板


 今年は例年よりも暖かいせいか季節の進みもゆっくりのようで、誓林寺の境内のイチョウの木もようやく色づき始めました。しかしそうは言っても、季節は着実に移ろいでいるようで、日暮れは日に日に早くなっていっています。心まで暗く寒くならぬよう、あたたかい阿弥陀さまのお心を日々お聞かせいただきたいなと思います。

 さて、今月の誓林寺掲示板のお言葉は、相田みつを さんのおうたです。「ものさし」というのは価値基準ということですが、ここで言われている「そん(損)」「とく(得)」というのは単純なお金の話ではありません。ここで言う「損」は「私の心が満たされないこと」。逆に「得」は「私の心が満たされること」と言うことができるのではないかと思います。
 私たちが生活を円滑に営むには、お互いに「心が満たされていく」ことが大切です。それゆえ、私たちはお互い上手に付き合っていく術として、相手の心を満たすために「本音」と「建前」を使い分けながら生きています。これも先人方が築いてこられた立派な生活の知恵です。
 
 けれども一方で、この「生活の知恵」が使えない場面があります。それが私の命に関わる場面です。今年の報恩講で田坂先生が、「うそ(本音と建前)」の言葉は、「命(生老病死)」を前にしたときは末通らないというお話をしてくださりました。
 今にも息を引き取りそうな人に対して、あるいは、今まさに病や老いの苦しみを抱えている人に対して届く言葉、私の「命(生老病死)」に末通っていく言葉、それが「まこと」の言葉です。けれども、その「まこと」の言葉を持ち合わせていないのが私でした。

 阿弥陀さまの価値基準(ものさし)は、「命(生老病死)」を生きている私に届く言葉(まこと)か届かない言葉(うそ)かでした。そして、「まこと」を届けてくださるのが阿弥陀さまでした。その「まこと」の言葉が、「南無阿弥陀仏(私はあなたを決して見捨てない。あなたを必ずお浄土に生まれさせ、仏にしてみせる。)」というお言葉でした。

 この「まこと」の言葉が私の「命(生老病死)」に末通ってくださっているからこそ、いつでもどこでもどんな場面でも「南無阿弥陀仏」とお念仏が出てくださるのです。どんな場面でも「南無阿弥陀仏」が出てくださるから、どの瞬間を切り取っても、私の「命(生老病死)」が本当の意味で満たされていくのです。

  「 そんか とくか
    人間のものさし
    うそか まことか
    仏さまのものさし 」

 「まこと」の言葉に出遇わせていただく中で、本当に「心満たされた」人生をお互いさまに生かさせていただきたいと思います。

合掌

誓林寺

2019年10月22日火曜日

2019年10月の掲示板

 
 台風19号による未曽有の大雨により日本各地で甚大な被害が出ています。被災された方々に心からお見舞い申し上げます。そして、一日でも早く日常が取り戻されることを願います。悲しいニュースの一方で、日本ラグビーがワールドカップで快進撃を見せ国中を盛り立ててくれました。私を含め多くの方がラグビーの試合に感動されたことだと思います。
 お恥ずかしいことですが、良くも悪くも目立たないとなかなか気が付けない私の姿がここにあります。せめて、大事なことを見失いがちな私に大事なことを伝えてくださる声に耳を傾けられる人でありたいと思います。

 さて、今月の掲示板の言葉は、島根県石見の妙好人 浅原才市さん(1850~1932)のおうたです。才市さんの作られたおうたは前にも何度か紹介させていただきましたが、天性の才能なのでしょう。どのおうたもとても語呂がよくて耳に心地よく、言葉が胸にすっと入ってきます。今月紹介のおうたもそのひとつです。
 仏さまのこころだけではなく私たちのこころも目には見えません。だからこそ私たちは「言葉」を通して話をし、こころを伝えていくのですが、この「言葉」がとてもやっかいです。確かに私たちは「言葉」によって相手のこころを知っていくことができますが、私たちが使う「言葉」は残念ながらこころをすべて表すことができませんし、時にはこころと「言葉」がチグハグのことだってあります。けれども、私たちはこころを直接見られませんから、「言葉」に頼らざるを得ないのでどうしてもこころの行き違いが起こってしまいます。「言葉」がないとこころが分からないのに、その「言葉」で余計にこころが分からなくなっているのが私たちでした。
 
 そんな中で、こころはおろか姿さえ見ることができない阿弥陀さまと、「言葉」とこころが異ならない、まことの会話をすることができることを「不思議なものよ」と喜んでいかれたのがこのおうたでした。その会話の「言葉」は「称名念仏」、つまり「南無阿弥陀仏」です。この「南無阿弥陀仏」という「言葉」は、阿弥陀さまの「あなたを決して見捨てずどんなときも支えていますよ。」というおこころを(この言葉ですらすべて言い表せていませんが)そっくりそのまま余すことなく表してくだっている「言葉」です。このお念仏の会話を通して阿弥陀さまのこころのぬくもりに触れていくのです。
 会話は相手のこころを聞いていくためのもの。そうであるならば、「南無阿弥陀仏」のお念仏は、誰かが亡くなったときにだけ称えるものでも誰かのために称えるものでもなく、今私が阿弥陀さまのおこころを聞かせていただくものでありました。そして、普段の会話の場面は日常の中に散りばめられているように、お念仏を称え阿弥陀さまとお話をする場面もお仏壇の前だけじゃありません。日常のいたるところに散りばめられています。そのために阿弥陀さまはいつでもどこでも「南無阿弥陀仏」と出てくださる仏さまになってくださったのでありました。
 「 仏のこころは 不思議なものよ
   めにはみえねど 話ができる
   仏と話をするときは
   称名念仏 これがはなしよ  」
 日々の様々な場面で、お念仏という阿弥陀さまの温かいおこころを聞かせていただく会話を大切にしながら生きていきたいなと思います。
称名

誓林寺
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2019年9月26日木曜日

2019年9月の掲示板


 
 息子がまだ連れ合いさんのお腹の中にいた頃に植えられた田んぼの稲はすっかり収穫の時期を迎え、長沢の田んぼには落ち穂を拾いにいろんな動物が訪れています。
   日もすっかり短くなり、誓林寺も本格的な秋を迎えています。各地で台風の被害が出ており、被災者の皆さんの生活が心配されますが、私たち1人ひとりにとってこの秋が御法(みのり)の秋になりますよう念じています。

    さて、今月の掲示板のお言葉は、三重県のお寺のご門徒さんが作られたおうたを載せさせてもらいました。
    私事ですが、今月滋賀にいる実母が60回目の誕生日を迎え、還暦になりました。7月には孫が生まれ名実ともに「おばあちゃん」になりました。平均寿命が男女ともに80歳を超える今、60歳はまだまだ「若い」と言われる歳ですが、これからも元気に喜寿・米寿・白寿・百寿と生きていてほしいなと願います。

    しかしながら、願いとは裏腹に「老いも若きもこの世に生を享けたからにはいつどこでどんな風にいのち終えていくかわからない」ということを教えてくださるのが仏教でした。けれども、浄土真宗のみ教えを聞かせていただく私たちは、ただむなしくいのちを終えていくのではありません。『仏説阿弥陀経』にはこのようなご文が出てきます。

    「かの仏の寿命およびその人民(にんみん)も無量無辺阿僧祇劫(むりょうむへんあそうぎこう)なり。ゆえに阿弥陀と名づく。」

    「無量無辺阿僧祇劫」というのは、はかり知ることのできないほど長い時間のこと、つまり無限ということを表しています。阿弥陀さまのお名前の由来を尋ねると、この仏さまは無限のいのちをもった仏さまでありました。そのお経のおこころを詠んでくださったのがこのおうたですが、お経さまの言葉には、「かの仏の寿命およびその人民も」と言われています。つまり、阿弥陀さまだけではなく、お浄土に生まれていった人たちも無限のいのちをもった仏さまにならせていただくんだということです。

    そのことを踏まえておうたを読ませてもらうと、「我」とは、いのち尽きお浄土に生まれ仏さまにならせていただく「この私」のことだと受け取れます。

    人のいのちとして何歳と言っている私ですが、このいのち何歳で終わっていこうとも、阿弥陀さまに出遇わせていただいたこの人生は、必ず無量寿の仏さまにならせていただく、むなしく終わらない人生でありました。

    「  喜寿・米寿
          白寿・百寿も
          なんのその
          我は無量寿
          ナモアミダブツ  」

    遠く日の沈む西の彼方にあると説かれる私たちのいのちが仏として帰っていくところ、極楽浄土に思いを馳せながら、1日1日と過ごさせていただきたいと思います。

合掌

誓林寺
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2019年8月23日金曜日

2019年8月の掲示板


 
 今年のお盆も過ぎ、夕方になれば涼しい風が吹くようになり、ヒグラシや鈴虫など夏の終わりを告げる虫たちも出てきました。少しずつ秋の足音が聞こえ始めているようです。とはいえ、日中はまだまだ暑い日があります。季節の変わり目、体調には十分注意して過ごして参りたいと思います。

 さて、とても遅くなってしまいましたが今月の掲示板の言葉は詠み人知らずのお詩です。解説がなくてもなんとなく言おうとしていることは理解できるのではないかなと思いますが、「六字」というのは、もちろん「南無阿弥陀仏」の六字のお念仏のことです。このお詩は、「お念仏が出るということは、阿弥陀さまが私の中にしっかりと入っていてくださる証だ」ということを詠んでくださっています。

 当たり前のことですが、鈴は中に玉が入っていなければどれだけ振っても音がなることはありません。たとえどれだけいい音のする鈴を作っても、玉を入れ忘れてしまったら音は出ませんね。これまた当たり前のことですが、鈴は振れば音が鳴りますが、振って音が鳴った時だけ玉が入っている訳ではなく、音が鳴っていないときもずっと入っているのが鈴の玉です。

 同じように、私たちが「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えることができるのは、私の中にちゃんと阿弥陀さまが入っていてくださるからです。また、阿弥陀さまは「声の仏さま」ということをよく聞かせてもらいますが、お念仏を称えた時にだけいてくださっているのか?というとそうではありません。鈴の玉が、鳴る時以外もずっと鈴の中にあるように、阿弥陀さまも「南無阿弥陀仏」の声となって出てきてくださる時以外もずっと私の中に居続けてくださっています。

  「 あればなる
    なければならぬ
    鈴の玉
    胸に六字の
    なきは称へず 」

 「あなたが声に『南無阿弥陀仏』と出せない時だって、いつでもどこでも私はあなたと共にいて、あなたを絶対に独りにはさせない」と誓ってくださった阿弥陀さま。その誓いは、この私の体の中に入り満ちるということによって果たしてくださいました。
 「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」とお念仏申す中に、「あなたを決して独りにはさせない」という阿弥陀さまのあたたかいお心を感じながら日々を送って参りたいと思います。

合掌

誓林寺
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2019年7月12日金曜日

2019年7月の掲示板


 
 7月2日、大きないのちのはたらきの中で、私たち夫婦の間に尊い仏さまの子をお迎えすることができました。小さな小さな身体を抱くとき、そこにいのちの重みを感じます。1日、また1日と家族で見守り世話をする毎に愛おしさが増していきます。
 子どもを愛おしく思うとき、阿弥陀さまがこの私可愛さのあまり手間をかけてくださった五劫・兆載永劫(ちょうさいようごう)という長い長い時間に思いを馳せると、私のいのちに向けられている阿弥陀さまの温かいまなざしと思いの深さを感じとても有難く感じます。
 驚きと失敗と大きな感動を繰り返しながら、子育てに励んで参りたいと思います。

 ということで、今月の掲示板の言葉は、シンガーソングライター熊木杏里さんの『誕生日』という曲の歌詞の一節を書かせてもらいました。「あなたが大事なんだよ」ということをストレートに歌ってくださっている私が大好きな曲の一つです。

 昨今は、何かと理由や根拠が求められ、理由がないことは頼りないものと捉えがちになっているような気がします。確かに、しっかりとした根拠がある方が信用度や安心感が増すことはあります。ですが、誰かを大事に想う気持ちにはあまり理由がない方がいいなぁと思うのです。なぜなら、「あなたは~だから大事」「あなたは~してくれるから大事」と言ったとき、「~」に当てはまるときはいいですが、この言葉の裏には「~」に当てはまらなくなったら大事ではないという言葉が隠れているからです。誰かを想う気持ちに「理由がないこと」は頼りないことではなく、どんなあなたであっても大事なんだという思いが込められてあります。

 「南無阿弥陀仏」のお念仏の声には、「どんなあなたであってもあなたが大事なんだ」という阿弥陀さまの思いがギュッと詰まっています。この無条件の思いに触れていくことができるからこそ私たちは自分のいのちに自信を持って生きていくことができるのだろうと思います。

 2番のサビにはこのような歌詞が出てきます。

  「 ありがとう
    手のひら合わせられるのは
    あなたがこうして
    ここにいるからなんだよ 」

 私のいのちに「ありがとう」と手を合わせてくださる阿弥陀さまが今ここに「南無阿弥陀仏」の声となっていてくださるから、私たちもまた阿弥陀さまに「ありがとうございます」「南無阿弥陀仏」と手を合わせていくことができるのでしょう。

 お互いさまに理由などつけようもないほど大切な尊いいのちを生き合っていることをお念仏の声に気づかされながら生きて参りたいと思います。

称名

 誓林寺
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2019年6月17日月曜日

2019年6月の掲示板



 気が付けば、6月もすっかり折り返しを迎えてしまいました。いろいろと追われながら過ごすうちに更新が遅くなってしまいました。すみません。
 
 誓林寺の境内の梅の木は、5月の不順な天気にも負けず立派な実をつけてくれました。たくさんの梅の実は今年もまたおいしい梅酒や梅ジュースへと姿を変えてくれることでしょう。そんないのちの恵みに感謝しながら今月の残り2週間も過ごして参りたいと思います。

 さて今月の掲示板の言葉は、誓林寺からご門徒の方にお配りしている『ほのぼのカレンダー』の6月に載っている言葉、「生きているつもりでいたら 生かされていた 私」です。
 私たちは、日々の暮らしの中でそれぞれが自分なりに精一杯生きています。「一生懸命に生きている」という思いが募るほど「私が頑張っているから生きていけているんだ」と受け止めてしまいがちです。確かに私が頑張らないと生きられないという側面もありますが、仏さまの教えを聞かせていただくと「本当にそれだけだろうか?」ということに気付かされます。

 仏教は「縁起」ということを説きます。つまり、すべてのことはあらゆる原因と結果に縁(よ)って起こっているんだということです。言い換えれば、何一つ無関係なものはありませんということです。ということは、私一人で頑張って生きていたのではなく、頑張る私を支えてくださる周りのいろんな思いやはたらきかけがあったから私は頑張っていられたのでした。

 蓮如上人は『御文章』(白骨章)の中で、「無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉じ」と仰っています。どれだけ健康であっても若くても、縁が整ってしまえばいつだっていのち終えていかなければならないのが私たちの姿でありました。その私が今日こうして生きることができているのは、いろんなご縁に「生かされている」からでありました。なればこそ、「生かされている」大事ないのちを精一杯生かさせていただきたいなと思います。
合掌

2019年5月7日火曜日

2019年5月の掲示板



 5月に入り、いよいよ令和の時代を迎えました。外を見れば初夏の陽気に新緑がまぶしく、太陽の光をまるごと葉に宿しているかのようです。また、この連休で長沢村の田植えも済み、田んぼには水が引かれ、蛙の声がそこかしこでこだましています。そんな景色の中、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えながら散歩をすると、理屈を超えて大きないのちに抱かれていることを実感します。今月も、いのちの躍動を感じながら過ごして参りたいと思います。

 さて、今月の掲示板の言葉は、大阪のお同行、横山定男さん(1915~1993年)の詩です。解説の必要がないほどやさしい言葉ですが、言われていることは、私たち仏教徒にとってはとても大事にしていきたい事柄を記してくださっています。つまり、「そんな世界」とは、まさしく仏さまが見ていてくださる「慈悲」の世界のことです。

 私の日常を振り返ってみれば、「苦しい」ことも「楽しい」ことも両方ありますが、「苦しい」日々を乗り越えて来られたのは、一緒に「苦しいね」と言ってくださる方がいてくださったからでありました。そして、「楽しい」日々がより彩られて感じることができたのは、一緒に「楽しいね」と言ってくださる方がいてくださったからでありました。

 私たちは、自分の心に共感してもらえることが一番嬉しいことだと知っています。そして、誰かの心に共感することで相手が安心し、それが自分の喜びになっていくことも知っています。けれども、知っているのになかなかそうはなれない私がいます。なかなか共感しきれないからこそ「苦しい」私がいるのかもしれません。

 そんな私をどこまでもどこまでも受け止め、「あなたが苦しければ私も苦しい。あなたが楽しければ私も楽しい。」と言い続けてくださるのが「南無阿弥陀仏」の慈悲の仏さまでした。「どんなあなたであっても受け止めきるぞ」のお念仏の声に安心と喜びをいただきながら、「令和」という新しい時代を迎えて参りたいと思います。
合掌

誓林寺
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2019年4月4日木曜日

2019年4月の掲示板



 
 境内の桜が満開になり、美しく誓林寺を荘厳してくれています。やはり桜を見ると「春」を感じずにはいられません。新しいいのちが芽吹き出すこの時期は、いのちの力強さを感じ自然からとても元気をいただきます。4月1日には新元号が「令和」と発表され、5月1日にはいよいよ新しい時代を迎えます。平成最後の月、そして新年度の最初の月、慌ただしく過ぎていきそうですが、新しいことが始まるドキドキを楽しみながら過ごしていきたいと思います。

 さて、今月の掲示板の言葉は、香川県坂出市の歌人 中河幹子さん(18971980年)のおうたです。このおうたは、作者の幼少の頃を詠まれたものだそうですが、日常の中にお念仏の薫りがするとても素敵なうたです。「そをききわけぬ」というのは「それを聞き分ける」ということ。つまり、同じ「南無阿弥陀仏」のお念仏であっても、その声色で親が喜んでいるのか悲しんでいるのかが伝わってくるということなのでしょう。それほどまでに、どんな時もお家の中がお念仏の声で満たされていたんだろうなということが想像できます。

 私たちは「お念仏」と聞くと、ついつい心を静めて称えるものだと思いがちです。けれども、宗祖親鸞聖人は「お念仏を称えることに私の心持ちは関係ないんだ」とお示しくださいました。なぜなら、お念仏は阿弥陀さまが私のいのちに寄り添ってくださっている“すがた”だからです。私のいのちは、悲しみに涙し途方に暮れることもあり、はたまた喜びに笑みがこぼれ、嬉しくてじっとしていられないこともあります。時には、ただボーーっとしていることだってあります。けれども、その私のいのちそのものに寄り添うと誓ってくださったのが阿弥陀さまなのです。だからこそ阿弥陀さまは、「あなたのいのちある所がお念仏の出る所」と仰ってくださいます。「悲しかったら涙ながらにお念仏すればいい。嬉しかったら弾んだ声でお念仏すればいい。何も考えずにただただボーーっとお念仏すればいい。そのあなたを私がしっかりと受け止めていきましょう。」そんな風に仰ってくださるのが私たちの阿弥陀さまでありました。

  「喜びに 悲しみに
   念仏(ねぶつ)したまへば
   幼き耳も そをききわけぬ」

 喜びにつけ悲しみにつけ「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお念仏申しながら、周りの人もその喜び悲しみを共にできる。そんなお互いでありたいなと思います。
合掌

誓林寺
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2019年3月6日水曜日

2019年3月の掲示板



 あっという間に2月が終わり、もう3月に入ってしまいました。あたりはすっかり春の装いになり、日が長くなってきたなと思えばもうお彼岸の季節でした。まさに「光陰矢の如し」ですね。年々時の流れが速く感じられ、このまま、ただただ流されるままに歳を重ねていくことを思うと、蓮如上人が「電光朝露」の一生であると言われたのも少しうなずける気がします。そんな中でも、季節の訪れや新たな気付き一つひとつに感動しながら、できるだけこのいのちを丁寧に生かさせていただきたいものです。

 さて、今月の掲示板の言葉は、詠み人知らずですが、ある女の子が書いた詩を紹介させていただきました。この詩を読んでいると、この女の子の中には、おおらかでとても温かい世界が広がっていることが伝わってきます。つまり、阿弥陀さまとお浄土という世界がしっかりとこの女の子のいのちを支えてくださっているなぁと感じます。

 私たちの目に映るものは楽しいことや嬉しいこともありますが、それ以上につらいことや悲しいことの方が多いのかもしれません。しかし、ここで言われている「かなしいときには目をつむろう」という言葉は、単純に「悲しいことは見ないようにしよう」ということではないように思えます。次の言葉に「まぶたの裏には広い世界がある」と続くように、悲しいことにフタをするのではなく、悲しいことが悲しいままでは終わらない広い世界があるということでしょう。その世界は目で見ていくような世界ではなく、心の中に開けていく世界。それがお浄土という世界でありました。
 そして、さみしいときにそのさみしさを包み込んでくれるものは、底抜けの温もりです。「南無阿弥陀仏」と手を合わせるとき、そこには私のさみしさをすべて知り尽くし受け止めてくださる阿弥陀さまが「私がいつでもそばにいるよ」と温かく呼びかけてくださいます。さみしさに暗く冷えた心に温かな光が届くとき、私の心は温められていくのでありました。

  「かなしいときには 目をつむろう
   まぶたの裏には 広い世界がある
   さみしいときには 手を合わそう
   むねのなかには ひかりがある」

 悲しみの多いこのいのち、孤独を抱えながら生きていくこのいのち。しかし、悲しみが悲しみのまま終わっていかない世界、孤独が孤独のまま終わっていかない世界。そんな世界をいただいていくのが浄土真宗というみ教えでありました。ともに広く明るく温かな世界をこの身にしっかりといただいて生きていきたいなと思います。
合掌

誓林寺
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2019年2月7日木曜日

2019年2月の掲示板


 二月に入り立春を迎え、暖かい日も増えてきましたが、暦では春でもまだまだ冬を感じる今日この頃。寒暖差が身体に堪えますが体調には気を付けていきたいと思います。

 さて今月の掲示板の言葉は、大阪の仏教詩人 榎本栄一さん(1903-1998)の詩です。浄土真宗に帰依されていた榎本さんならではの明るく前向きでしたたかなお言葉です。

 以前ある先生が、「浄土真宗のみ教えをいただくということは、生涯をかけて阿弥陀さまが間違いないことを確認させていただくことだ」と仰っていました。阿弥陀さまが間違いないことを確認するということは、私が間違う人間だということを確認することでもありました。

 思えば私の毎日はしくじりの連続であります。けれどもそれを見抜いてくださったのが阿弥陀さまでありました。「自分は間違わん」と思っていた私がしくじった。その度に「あぁ、そうでありました。私はしくじる人間でありました。」と気付かせていただく。それは悲しいことではなく、まことに出遇えた、「目があい」た姿でありました。なればこそ、「我にまかせよ」の「南無阿弥陀仏」のお念仏の声がよりたのもしく聞こえてくるのでしょう。

  「またひとつ
   しくじった
   しくじるたびに
   目があいて
   世の中 すこし広くなる」

しくじっても、「おかげさまで世の中すこし広くなった」と受け止めていくことができたら、こんなに豊かな人生はないですね。そんな人生を歩ませていただきたいなと思います。
合掌

 

2019年1月4日金曜日

2019年1月の掲示板



 明けましておめでとうございます。誓林寺も無事新年を迎えることができました。今年は5月から31年間続いた「平成」が終わり新たな元号に変わりますね。元号が変われば世間もガラッと変わるのかと言えばそうではないでしょうけれども、しかし、一つの大きな転換点にはなるのかもしれませんね。私にとっても今年1年は大きな変化の年になる予感がします。変わりゆく中に変わらないおみ法をいただきながら本年も自分なりにがんばっていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 さて、2019年最初のお言葉は、奈良県橿原市の浄土真宗本願寺派のお寺にいらっしゃった中川静村先生のお言葉をいただきました。新年を迎えるにあたって、今の私を見つめ直すのにぴったりなお言葉だなと思い選ばせていただきました。

 このお言葉に触れて、ふと、昨年を振り返ってみただけでも、この私一人のいのちを支えるのに数えきれないほどのお手間や思いをかけていただいたことを思わされます。そして、私が気付けているのは1割、いや1%にも満たないのでしょう。そんな計り知れない思いや願い、お手間の中で私は「生かされて生きてき」て、「生かされて生きてい」ます。

 しかし、この中川先生のお言葉で一番大切なのは、実は後半ではないかなぁと思います。ややもすれば、「これだけ手間をかけていただいたんだから、これからはできるだけ手間のかからないようにしていかなければならない」とか、「できるだけ他人様の世話にならないように」という風になってしまいがちです。確かにそのような心持ちは尊いことではありますが、へたをすれば「手間をかけてもらうこと」「お世話になること」がいけないこと、恥ずべきことのようになってしまいます。しかし、そもそも今までもがそうであったように、私は計り知れないお手間の中で生き、これからもそうでないと生きていけません。ですから、「生かされること」「手間をかけてもらうこと」「お世話になること」は恥ずべきことではなく、「手を合わせていくこと」でありました。

 生かされずには生きていけないからこそ「手を合わし」、私を支えてくださるものが計り知れないからこそ「南無阿弥陀仏」とお念仏を申していくのでありました。

 「生かされて 生きてきた
  生かされて 生きている
  生かされて 生きていこうと
  手を合わす 南無阿弥陀仏」

ともに大きな願いの中にあるいのち、手を合わせお念仏を称えながら今年1年過ごして参りたいと思います。
合掌