2019年1月4日金曜日

2019年1月の掲示板



 明けましておめでとうございます。誓林寺も無事新年を迎えることができました。今年は5月から31年間続いた「平成」が終わり新たな元号に変わりますね。元号が変われば世間もガラッと変わるのかと言えばそうではないでしょうけれども、しかし、一つの大きな転換点にはなるのかもしれませんね。私にとっても今年1年は大きな変化の年になる予感がします。変わりゆく中に変わらないおみ法をいただきながら本年も自分なりにがんばっていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 さて、2019年最初のお言葉は、奈良県橿原市の浄土真宗本願寺派のお寺にいらっしゃった中川静村先生のお言葉をいただきました。新年を迎えるにあたって、今の私を見つめ直すのにぴったりなお言葉だなと思い選ばせていただきました。

 このお言葉に触れて、ふと、昨年を振り返ってみただけでも、この私一人のいのちを支えるのに数えきれないほどのお手間や思いをかけていただいたことを思わされます。そして、私が気付けているのは1割、いや1%にも満たないのでしょう。そんな計り知れない思いや願い、お手間の中で私は「生かされて生きてき」て、「生かされて生きてい」ます。

 しかし、この中川先生のお言葉で一番大切なのは、実は後半ではないかなぁと思います。ややもすれば、「これだけ手間をかけていただいたんだから、これからはできるだけ手間のかからないようにしていかなければならない」とか、「できるだけ他人様の世話にならないように」という風になってしまいがちです。確かにそのような心持ちは尊いことではありますが、へたをすれば「手間をかけてもらうこと」「お世話になること」がいけないこと、恥ずべきことのようになってしまいます。しかし、そもそも今までもがそうであったように、私は計り知れないお手間の中で生き、これからもそうでないと生きていけません。ですから、「生かされること」「手間をかけてもらうこと」「お世話になること」は恥ずべきことではなく、「手を合わせていくこと」でありました。

 生かされずには生きていけないからこそ「手を合わし」、私を支えてくださるものが計り知れないからこそ「南無阿弥陀仏」とお念仏を申していくのでありました。

 「生かされて 生きてきた
  生かされて 生きている
  生かされて 生きていこうと
  手を合わす 南無阿弥陀仏」

ともに大きな願いの中にあるいのち、手を合わせお念仏を称えながら今年1年過ごして参りたいと思います。
合掌