2019年9月26日木曜日

2019年9月の掲示板


 
 息子がまだ連れ合いさんのお腹の中にいた頃に植えられた田んぼの稲はすっかり収穫の時期を迎え、長沢の田んぼには落ち穂を拾いにいろんな動物が訪れています。
   日もすっかり短くなり、誓林寺も本格的な秋を迎えています。各地で台風の被害が出ており、被災者の皆さんの生活が心配されますが、私たち1人ひとりにとってこの秋が御法(みのり)の秋になりますよう念じています。

    さて、今月の掲示板のお言葉は、三重県のお寺のご門徒さんが作られたおうたを載せさせてもらいました。
    私事ですが、今月滋賀にいる実母が60回目の誕生日を迎え、還暦になりました。7月には孫が生まれ名実ともに「おばあちゃん」になりました。平均寿命が男女ともに80歳を超える今、60歳はまだまだ「若い」と言われる歳ですが、これからも元気に喜寿・米寿・白寿・百寿と生きていてほしいなと願います。

    しかしながら、願いとは裏腹に「老いも若きもこの世に生を享けたからにはいつどこでどんな風にいのち終えていくかわからない」ということを教えてくださるのが仏教でした。けれども、浄土真宗のみ教えを聞かせていただく私たちは、ただむなしくいのちを終えていくのではありません。『仏説阿弥陀経』にはこのようなご文が出てきます。

    「かの仏の寿命およびその人民(にんみん)も無量無辺阿僧祇劫(むりょうむへんあそうぎこう)なり。ゆえに阿弥陀と名づく。」

    「無量無辺阿僧祇劫」というのは、はかり知ることのできないほど長い時間のこと、つまり無限ということを表しています。阿弥陀さまのお名前の由来を尋ねると、この仏さまは無限のいのちをもった仏さまでありました。そのお経のおこころを詠んでくださったのがこのおうたですが、お経さまの言葉には、「かの仏の寿命およびその人民も」と言われています。つまり、阿弥陀さまだけではなく、お浄土に生まれていった人たちも無限のいのちをもった仏さまにならせていただくんだということです。

    そのことを踏まえておうたを読ませてもらうと、「我」とは、いのち尽きお浄土に生まれ仏さまにならせていただく「この私」のことだと受け取れます。

    人のいのちとして何歳と言っている私ですが、このいのち何歳で終わっていこうとも、阿弥陀さまに出遇わせていただいたこの人生は、必ず無量寿の仏さまにならせていただく、むなしく終わらない人生でありました。

    「  喜寿・米寿
          白寿・百寿も
          なんのその
          我は無量寿
          ナモアミダブツ  」

    遠く日の沈む西の彼方にあると説かれる私たちのいのちが仏として帰っていくところ、極楽浄土に思いを馳せながら、1日1日と過ごさせていただきたいと思います。

合掌

誓林寺
http://seirinji.main.jp