今年は例年よりも暖かいせいか季節の進みもゆっくりのようで、誓林寺の境内のイチョウの木もようやく色づき始めました。しかしそうは言っても、季節は着実に移ろいでいるようで、日暮れは日に日に早くなっていっています。心まで暗く寒くならぬよう、あたたかい阿弥陀さまのお心を日々お聞かせいただきたいなと思います。
さて、今月の誓林寺掲示板のお言葉は、相田みつを さんのおうたです。「ものさし」というのは価値基準ということですが、ここで言われている「そん(損)」「とく(得)」というのは単純なお金の話ではありません。ここで言う「損」は「私の心が満たされないこと」。逆に「得」は「私の心が満たされること」と言うことができるのではないかと思います。
私たちが生活を円滑に営むには、お互いに「心が満たされていく」ことが大切です。それゆえ、私たちはお互い上手に付き合っていく術として、相手の心を満たすために「本音」と「建前」を使い分けながら生きています。これも先人方が築いてこられた立派な生活の知恵です。
私たちが生活を円滑に営むには、お互いに「心が満たされていく」ことが大切です。それゆえ、私たちはお互い上手に付き合っていく術として、相手の心を満たすために「本音」と「建前」を使い分けながら生きています。これも先人方が築いてこられた立派な生活の知恵です。
けれども一方で、この「生活の知恵」が使えない場面があります。それが私の命に関わる場面です。今年の報恩講で田坂先生が、「うそ(本音と建前)」の言葉は、「命(生老病死)」を前にしたときは末通らないというお話をしてくださりました。
今にも息を引き取りそうな人に対して、あるいは、今まさに病や老いの苦しみを抱えている人に対して届く言葉、私の「命(生老病死)」に末通っていく言葉、それが「まこと」の言葉です。けれども、その「まこと」の言葉を持ち合わせていないのが私でした。
阿弥陀さまの価値基準(ものさし)は、「命(生老病死)」を生きている私に届く言葉(まこと)か届かない言葉(うそ)かでした。そして、「まこと」を届けてくださるのが阿弥陀さまでした。その「まこと」の言葉が、「南無阿弥陀仏(私はあなたを決して見捨てない。あなたを必ずお浄土に生まれさせ、仏にしてみせる。)」というお言葉でした。
この「まこと」の言葉が私の「命(生老病死)」に末通ってくださっているからこそ、いつでもどこでもどんな場面でも「南無阿弥陀仏」とお念仏が出てくださるのです。どんな場面でも「南無阿弥陀仏」が出てくださるから、どの瞬間を切り取っても、私の「命(生老病死)」が本当の意味で満たされていくのです。
「 そんか とくか
人間のものさし
うそか まことか
仏さまのものさし 」
「まこと」の言葉に出遇わせていただく中で、本当に「心満たされた」人生をお互いさまに生かさせていただきたいと思います。