2020年5月23日土曜日

2020年5月の掲示板



 毎年「こどもの日」頃に立夏を迎えると、季節が春を極め夏に向かって動き出しますが、最近は本当に太陽の陽射しが夏めいてきました。ちなみに、原稿を書き出した本日5月21日は、すでに二十四節気の中の「小満」になっているそうですから、また一つ夏へと季節が進んでいます。どうりで冷たい飲み物が美味しいわけです。日本における新型コロナウイルス感染症の拡大も一旦の落ち着きが見えてきました。この状況も少しずつ前に進んでいるようです。けれども、依然として感染のリスクはありますから、お互いさまにできる範囲の対策をしながら過ごして参りたいと思います。

 さて、今月の掲示板の言葉は、以前にも掲示板で紹介したことがある大阪の仏教詩人、榎本栄一さん(1903-1998)の『求道』という題の詩を書かせてもらいました。
 「自分免許」とは、『大辞泉』には「他人は認めていないのに、自分だけが得意になっていること。ひとりよがり。」と説明されています。この「自分免許は あぶない」という言葉は、どの場面にも当てはまりそうですが、この詩の題が『求道』であることを踏まえると、ここではみ教えの受け止め、つまり「ご信心」について言われているのでしょう。
 
 「ご信心」とは、「あなたを必ず仏としてお浄土に迎えるから、どうかその人生「南無阿弥陀仏」とお念仏申し、わが声を聞きながら生きてきておくれ。」という阿弥陀さまの仰せを素直に聞き受け、仏さまにならせていただく身(仏の子)としてお念仏申しながら生活することです。浄土真宗のみ教えはこれに尽きると言ってもいいほどです。それゆえに、蓮如上人は『御文章』で、「聖人(親鸞聖人)一流の御勧化(ごかんけ)のおもむきは、信心をもつて本とせられ候(そうろ)ふ。」とまで言われています。

 「阿弥陀さまの言われた通りにする」というこの上なくシンプルなことですが、自分の頭で納得できないと気が済まない私は、自分の常識にはない阿弥陀さまの仰せに対して「本当にこれだけでいいんだろうか」とか、「本当に仏さまにならせていただけるんだろうか」などとかえって私の方で難しくしてしまいます。あるいは逆に、「こうに違いない」と自分の常識に当てはめて仰せを聞き損なったりしてしまいます。だからこそ親鸞聖人は、「阿弥陀さまの仰せに対しては自分の思いを差しはさんではいけないんだ」とお示しになられます。そのことを表現してくださったのが「自分免許は あぶない」という言葉なのでしょう。

 では、自分免許にならないために「これでよろしいか」と見てもらう「よき人」とは誰のことなのでしょうか?一番身近な存在で言えば、浄土真宗のみ教えを間違いのないように取り次いでくださる先生やお坊さん、あるいはお聴聞を重ね続けてくださったご門徒さんになるのでしょう。しかし、もっと突き詰めて言えば、その「よき人」とは他の誰でもない阿弥陀さまのことでありました。
 
 阿弥陀さまにお尋ねするということは、つまり、「南無阿弥陀仏」とお念仏申すことです。「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えれば、阿弥陀さまはどんなときでも「あなたを決して見捨てず必ず仏にするんだ」と私に言い続けてくださいます。それでも疑う私にも阿弥陀さまは、「分からんあなたを分からんままにお念仏を通して「あぁ、そうでありましたか」と頷くことができる身に育てあげる」と仰ってくださっています。ですから、「これでいいんだろうか」と思ったときは、分からないままに「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」とお念仏を称えながら、阿弥陀さまに直接お尋ねさせていただきたいと思います。

 気を抜けば、すぐに「自分免許」が出てしまう私。そんな私であるからこそ、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称え阿弥陀さまにご相談をしながら、仏さまにならせていただくいのちを生かさせていただきたいと思います。

称名


誓林寺
http://seirinji.main.jp