最近梅雨らしからぬ局地的な大雨が各地で降っており、この辺りでも夕立かなと思うくらい激しい雨が降ることもありますが、梅雨らしい優しい雨が降る日もあります。そんな日に耳をすませば、カエルたちが嬉しそうにその雨の始まりを告げてくれます。その声に呼ばれるように玄関を出ると、境内のアジサイが本当に嬉しそうに咲いている姿に出会うことができます。本格的な夏を迎えるまで、あともう少し梅雨らしさを味わいながら過ごしてまいりたいと思います。
さて、今月の掲示板の言葉は、詩人の阪田寛夫さん(1925‐2005)の「おおきくなあれ」という題のうたを書かせてもらいました。児童文学も手掛けておられる阪田寛夫さんらしいとても可愛らしいうたです。もちろん、実際に雨がブドウに入ってブドウを大きくするわけではありません。けれども、このうたには「さもありなん」と思わせるような不思議な響きがあります。
このうたを読んでいると、『仏説無量寿経』に出てくる「澍法雨(じゅほうう)」というお言葉が浮かんできます。このお言葉は「法雨を澍(そそ)ぐ」と読むように、私たちに届けられてある「おみ法(のり)」を雨にたとえられた言葉です。
雨は、分け隔てなくすべてのものに平等に降り注ぎ、潤いを与えいのちを育んでいくように、おみ法も分け隔てなくあらゆるいのちに降り注ぎ、そのいのちに潤いを与え人生を充実したものへと育んでくださいます。
自然の雨は、私たちの体に直接入ってくることはありませんが、おみ法の雨は、私たちの心に直接染み入ってくださいます。そのおみ法が私たちの心に直接染み入ってくださっている具体的なすがたが、私たちの口に出てくださる「南無阿弥陀仏」というお念仏でありました。
このお念仏のお心をお尋ねすれば、「あなたをひと時も離れずあなたのいのちを支えている仏がここにおりますよ」という阿弥陀さまからのメッセージでした。この阿弥陀さまのあたたかい心に触れていくとき、苦しみや悲しみの孤独によって乾いて凝り固まった心が少しずつ少しずつあたためられ潤いを得てほぐされていくのでしょう。そして、心がほぐされていくとき、苦しみや悲しみも私の人生を充実させる大事な意味を持ったものとして変えなされていくのでした。
そんなこころを私なりにアレンジしてこのうたを詠むならば
「 あめの つぶつぶ
わたしに はいれ
じわり じわり ほろり
じわり じわり ほろり
しみわたれ
あたたまれ 」
ということになるでしょうか。
梅雨は年に1度この期間だけですが、おみ法の雨は1年365日いつでもどこでも私の上に降りしきっています。雨に濡れるのは嫌ですが、おみ法の雨にはしっかりと濡れていただいて、お互いさまに潤いのある人生を歩ませていただきたいと思います。
合掌