長い梅雨が明けると一気に真夏に突入し今年も暑い夏となりました。お盆が過ぎ、空を見上げればうろこ雲がたなびき、夕方になれば秋を告げる虫たちが鳴くようになってきました。また、長沢村では田んぼの稲刈りも始まりました。夏の余韻はもう少し続きそうですが、来る秋の気配を楽しみながら過ごして参りたいと思います。
さて、今月の掲示板の言葉は、カナダの小説家モンゴメリ(1874-1942)の代表作『赤毛のアン』から書かせてもらいました。この『赤毛のアン』という物語は、孤児院にいた主人公のアンが、マシュウ(兄)とマリラ(妹)という独身の兄妹のもとに引き取られ、2人の大きな愛に包まれながら成長していく姿を綴った物語です。
掲示板の言葉は、孤児院からやってきたアンを引き取るかどうかをマシュウとマリラが話し合っている場面の言葉です。マリラがとても消極的な発言をしているのは、実は、2人は孤児院から男の子を迎える予定だったからです。けれども、手違いで女の子のアンが来てしまったので、このような言い方になっているわけです。
一方、子どもを駅まで迎えに行ったマシュウは、マリラよりも一足先にアンに出会います。マシュウも男の子が来ると思っていましたから最初は戸惑いますが、家に向かいながらアンと話すうちにアンという子の魅力に惹かれ、アンを追い返さず迎えることを密かに決心します。その決意が、マリラとの会話の中で「わしらのほうであの子になにか役にたつかもしれんよ」という言葉となって出てくるのです。
「この子のいのちはわたしが預かるんだ」という覚悟ができたとき、その子を見つめる思いは、「役に立つかどうか」ではなく「この子のために私にはなにができるのか」という思いへと変わっていくのでしょう。マシュウの発言は、まさに「アンの親になる」という宣言でもありました。そして、このマシュウの姿は、阿弥陀さまのお慈悲のはたらきに通じるように思います。
阿弥陀さまは、苦悩の中を生きる私の姿を見て「あなたのいのちはわたしが預かり、その苦しみはわたしが必ず取り除いてみせる」という決心をしてくださいました。これは阿弥陀さまの「あなたのいのちの親になる」という宣言でありました。この宣言を私に向かってしてくださったとき、私は何かの見返りを求められることなく、ただ阿弥陀さまのかぎりないお慈悲のぬくもりによって育てられる「仏の子」という存在になったのです。
「あの子がわたしらに 何の役にたつというんです?」
「わしらのほうであの子になにか役にたつかもしれんよ」
マシュウの、そして後にはマリラの親としてのぬくもりにアンが触れていくとき、この2人がアンにとってかけがえのない心の拠(よ)りどころになっていったように、どんな私であっても決して見捨てず支えてくださる阿弥陀さまの「いのちの親」としてのぬくもりに触れていくとき、私たちは本当の心の拠りどころに出遇っていくことができるのでしょう。
合掌