2020年9月30日水曜日

2020年9月の掲示板

 


 9月に入ったなと思っていたら、あっという間にお彼岸の時季を過ぎ、日が沈むのもすっかり早くなってきました。暑さも落ち着き過ごしやすくなって、いろんなことをしたくなってくる季節です。みなさんは、スポーツの秋、読書の秋、味覚の秋、どんな秋にされるでしょうか。これから秋が深まるにつれ寒暖差も大きくなってきますので、体調管理をしっかりとしながら秋を満喫していきたいと思います。

 さて、今月の掲示板の言葉は、江戸後期から明治にかけて活躍された浄土真宗の学僧である足利義山(1824‐1910)先生のおうたを書かせてもらいました。言葉自体は難しくはありませんが、省略されている言葉を補わないと何をあらわさんとしてくださっているのか分かりにくいところもあるかと思いますので、言葉を補いながらこのおうたを味わってみたいと思います。

 「ゆくさき」とは、私たちのいのちの行く先のことです。私のいのちがどこに向かっているのか、つまり、「なんのために生まれてきたのか」という私のいのちの意味と言い換えてもいいのかもしれません。しかし、私はと言えば、気が付いたときにはすでにこの世に生を享(う)け、生まれたままに日々を重ねてきました。つまり、わがいのちでありながら、どこから生まれてきてどこに向かって生きていくかも分からずに生きてきました。そんな私に向かって阿弥陀さまは、「南無阿弥陀仏」のお念仏の声となって「あなたのいのちはお浄土というさとりの世界に向かうべくして生まれてきたんだよ。」と告げてくださいます。

 このお念仏に出遇い、阿弥陀さまの仰せをそのまま受け止めることができるいのちへとお育ていただいたとき、私は「お浄土というさとりの世界に向かういのちを生きているんだ」と自覚をしながら人生を歩むことができます。そのことを足利先生は、「ゆくさきは たのむ初めにさだまりし」と詠んでくださいました。ちなみに、おうたに「たのむ初めに」という言葉が出てきますが、この「たのむ」というのは「お願いする」という意味ではなく、ここでは、「仰せの通りに受け止める」という意味です。つまり、私が阿弥陀さまに「お願いした」からお浄土へ生まれるいのちになったのではなく、阿弥陀さまが告げてくださる言葉に出遇い、その言葉を「受け止めた」ときに、「お浄土に生まれるいのちである」と知らされていくのです。

 私たちにとって一番辛いことは、自分が何のために生まれてきたのかも分からないままむなしくいのちを終えていくことでありました。そんな中で、阿弥陀さまに出遇い、いのちのゆくさきが定まるということは、私のいのちがただ無駄に終わっていくようないのちではなくなるということです。これは何にも代えがたいよろこびであり、そのよろこびを、感謝を阿弥陀さまに伝えていく言葉、それもまた「南無阿弥陀仏」のお念仏でありました。


  「 ゆくさきは たのむ初めにさだまりし

    そのうれしさを 口にとなえる   」


 「南無阿弥陀仏」のお念仏から阿弥陀さまの仰せを聞き、その仰せを聞いて「阿弥陀さま、ありがとうございます」とまた「南無阿弥陀仏」とお念仏を申す。そんな風に「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお念仏を申しながらこの人生を「お浄土へ向かういのち」として歩ませていただく。それが浄土真宗というみ教えが示してくださる仏道でありました。


称名


誓林寺
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