2021年2月24日水曜日

2021年2月の掲示板

 



 今冬は寒暖差が激しく、冬らしい凍えるような寒い日があるかと思えば4月のような陽気でシャツ1枚で過ごせそうな日もあり、しかもそれが短い期間で入れ替わるので身体がなかなかついていきません。しかしながら、自然の植物は大したもので、この寒暖差にも騙されずしっかりと時期をみてそれぞれの花を咲かせ始めています。境内の梅も時期を違(たが)えずちゃんと咲き、野に咲く菜の花は、太陽の光を集めたような明るい黄色の花を輝かせています。立春が過ぎ、いよいよ来(きた)る本格的な春の訪れに胸躍らせながら、今月も過ごして参りたいと思います。


 さて、今月の掲示板の言葉は、童謡詩人の金子みすゞさん(1903~1930)の「お仏壇」という題の詩の一節を書かせてもらいました。金子みすゞさんらしい優しく平易な言葉の中に、仏さまとしっかりと対話をしながら生きておられた姿がにじみ出ています。そして、その優しい言葉の中に、浄土真宗のみ教えを聞く私たちにとって、とても大切な阿弥陀さまの受け止めが示されているように感じます。


 それは、「忘れていても、仏さま、いつもみていてくださるの。」という言葉に表されているように、阿弥陀さまは、私が阿弥陀さまを思っていようと忘れていようと、この私のことを片時も離れず見ていてくださる仏さまということです。そのような仏さまがいてくださることを聞き受けていく時、私は「何かを見つめていくいのち」でありながら、「仏さまに見つめられるいのち」でもあることに気が付かされます。


 私の見つめる世界は絶えず移り変わっていきます。それは物質的なことだけではなく、私の心も絶えず移り変わっていますから、その心を通して見える世界もまた常に変化しています。それは、仏さまを見つめるときも同じでした。私が阿弥陀さまを見つめるとき、心から「有難い」と思う時もあれば、どれだけご法話を聞いてもなかなか「有難い」と思えない時もあります。そしてまた、私が私自身を見つめるときも同じで、自信に満ち溢れているときもあれば、「なんて私はダメなんだ」と自分自身に落胆するときもあります。


 そんな中、阿弥陀さまは私をどのように見つめてくださっているかというと、阿弥陀さまは私のようにコロコロと変わることなく、どんな時も私のいのちを「尊い尊い大事ないのち」として見つめ続けてくださっていました。それは、私が阿弥陀さまを「有難い」と思おうと思わまいと、覚えてようと忘れてようと、自分に自信があろうとなかろうと決して変わることはありませんでした。この阿弥陀さまの決して変わらないいのちの視点の中で生きていくとき、私は何があっても決して揺らぐことのない「いのちの尊さ」をいただくことができるのでありました。


 そんな風に、私自身が「阿弥陀さまの見つめる私」として生きていくことを、浄土真宗では「ご信心」というのでありました。この「ご信心=阿弥陀さまの眼差し」は決して揺らぐことがないから、親鸞聖人は「ご信心」のことを「金剛心(こんごうしん)(ダイヤモンドのように堅く砕けない心)」と示してくださいました。そして、この阿弥陀さまの眼差しに出遇(あ)うことができたからこそ、思い出した時には「ありがと、ありがと、仏さま。」と阿弥陀さまに手を合わしお念仏を称(とな)えるのでありました。


  「 忘れていても、仏さま

    いつもみていてくださるの。

    だから、私はそういうの。

   「ありがと、ありがと、仏さま。」」


 絶えず変わり続けるこの世界だからこそ、どんなときも変わらない阿弥陀さまの眼差しの中をお念仏を称えながら生かさせていただきたいと思います。

合掌


誓林寺
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