2021年3月30日火曜日

2021年3月の掲示板

 



 春分を過ぎて寒さも和(やわ)らいできました。それを見計らっていたかのように境内の桜はどんどんつぼみを膨らませ4月を前にとうとう満開になりました。薄ピンクの花を目の前にすると、理屈なしに「春」を感ぜずにはいられません。桜を咲かせた春の陽気に誘われて散歩をすれば、近所の田んぼでは冬の眠った土を掘り起こすトラクターが動いています。暖かくなったからといって冬でなまった身体を急に動かして壊さぬよう、身体も丁寧に準備手入れをしながら過ごしてまいりたいと思います。


 さて、今月の掲示板の言葉は、詩人の岩崎 航(いわさき わたる)さん(1976~)の『点滴ポール 生き抜くという旗印』という本の中にある詩の1編を書かせてもらいました。3歳で進行性の筋ジストロフィーを発症され、病気の苦しみと闘い、また病状が進行するにつれできることがどんどん減っていく中で、自身の「いのち」と真っ向から向き合ってこられた岩崎さんの詩は、1編5行の詩でありながら、一つひとつの言葉に生き抜く力強さと説得力を感じます。この詩も、自分の心と丁寧に付き合ってこられたからこそ紡(つむ)ぎ出された言葉なのでしょう。


 ところで、「耕す」と言えば、お釈迦さまにまつわるこんなお話があります。ある時、お釈迦さまが托鉢(たくはつ:食べ物の供養を受けること)をしていると、バーラドヴァージャという人が収穫した食べ物を配っているところに出会われます。お釈迦さまもその供養を受けるためにその人のそばに立たれます。すると、バーラドヴァージャはお釈迦さまに向かって、「みんなは種をまき、田んぼを耕して(=仕事をして)食べ物をもらっているんだ。あなたも種をまき田んぼを耕したらどうだ。」と揶揄(やゆ)します。これに対してお釈迦さまは、「私は仏法を説くことで信仰の種をまき、心を耕し、さとりを開くというこの上ない実りを届けているのだ。だから私は食べ物の供養を受けるのだ。」と応えられたのだそうです。


 潤いを失い寒さで凍った冬の田んぼの土は固いですが、軽い衝撃でボロボロとひび割れ崩れてしまいます。その固く乾いた土では植物は十分に根を伸ばすこともできず、のびのびと成長することもかないません。それは、私たちの心も同じでした。「私の思い」に閉じこもり荒(すさ)んだ心は頑(かなく)なで、なかなか自分以外の言葉が聞けず、閉じこもれば閉じこもるほど苦しくなって、ちょっとしたことで「いつのまにか ひび割れ」てしまいます。だからこそ、固くなってひび割れる前に、あるいは大事な言葉が聞こえなくなる前に、こまめに「心の田んぼ」を「耕す」ということが大切になってくるのでしょう。


 では「心の田んぼを耕す」とは具体的にどうすることなのかと言えば、仏教徒にとってはお釈迦さまが仰ったように仏法に出遇(であ)うことでありました。なかでも、浄土真宗において仏法に出遇う・「心を耕す」というのは「南無阿弥陀仏」とお念仏を称(とな)えることに他なりませんでした。お念仏を称えるということは、阿弥陀さまの「まこと」を知らせる声を聞くということです。それはつまり、「私の思い」に閉じこもり暗く狭くなってしまった私の心に阿弥陀さまの智慧という鍬(くわ)が入り、頑ななわが心が解きほぐされ、大事なもの・幸せに気付くことができる心の土壌が育まれていくということでした。そうやってお念仏によって耕された心には、私のいのちを支える仏法という木が大きく根が張り、阿弥陀さまの「まこと」を知らせる声に導かれながら生きる明るく広い世界が開かれていくのでした。


  「 いつのまにか

    ひび割れぬよう

    心の田んぼ

    耕していく

    黙々と    」


 年度末の忙しさについつい阿弥陀さまのことを忘れがちな私です。でも、だからこそ、少なくとも朝晩にはお仏壇の前に座り、阿弥陀さまに手を合わせ、お念仏を称え、阿弥陀さまの声に触れていく生活を送りたいなと思います。そうやって忙しさに心固くならないよう、毎日毎日わがいのちに手入れをしながら過ごしてまいりたいと思います。


称名


誓林寺
http://seirinji.main.jp