2021年4月26日月曜日

2021年4月の掲示板

 



 4月も後半になりましたが、今年の春は全体的にいつもより2週間ほど早く季節が巡っているらしく、例年はゴールデンウイークあたりに咲き出すつつじも藤もすっかり咲いてしまい、気温も春というよりは初夏のようです。そのような中で、田んぼの作業もいよいよ本格化し、水を引き始めた所もあり、そこかしこでカエルが嬉しそうに鳴いています。この時期にこれだけ暑くなると夏はどうなるんだろうと心配になりますが、少しずつ暑さに身体を慣らしながら過ごして参りたいと思います。


 さて、今月の掲示板の言葉は、さまざまな植物が色とりどりに咲き誇るこの時期に味わいたい言葉を書かせてもらいました。この言葉の作者は分かりませんが、今月もこの掲示板の言葉を通して少しおみ法を味わってみたいと思います。


 さまざまな感覚器官を使って、身の回りの物を確認しながら生きている私たちにとって、自分に感じられる、確認できるということほど安心できることはありません。中でも五感のうち、8割以上を視覚に頼っていると言われている人間にとって、やはり「見える」あるいは「目で確認できる」ものに頼りがちです。けれども、じゃあ目に見えないものは安心できないもの・信頼できないものなのかというとそうではありませんでした。

 そうではないものの1つが「力(はたらき)」です。私たちの目には「力」そのものは見えません。けれども、モノが動いたり止まったり変化することで、そこに「力」を感じていくことができます。そして、実はその目に見えない「力」こそが私のいのちを支えているのです。またここで大事なことは、私たちが「力」を感じることができるのはいつでもその「力」がはたらいて変化した後、つまり、いつでも「力」が先手ということです。


 植物は自分の力で光を集め土から栄養を吸収し花を咲かせますが、ここで言われている「花を咲かす力」とは植物自身の力ではなく、もっと大きなところから植物そのものを突き動かすようなはたらきのことを言っておられるのでしょう。そしてその大きなはたらき(力)を私たちは「春」と呼ぶのです。先ほど触れたように「力」はいつでも私が感じるより先ですから、花が咲くから春になるのではなく、春というはたらきによって花が咲くのでした。


 同じように、私たちはひとり一人精一杯自分の力で生きていますが、より大きなところから先手ではたらき、私たちのいのちそのものを突き動かし支える力のことを「仏」というのでした。ですから「仏さま」とは、お寺やお仏壇にご安置されているような ”姿” のことではなく、私のいのちを「人となす」 ”はたらき(力)” のことを言うのでした。でも、はたらきは目には見えませんから、その見えぬはたらきを形として示してくださったのがお寺やお仏壇のお立ち姿の阿弥陀さまという仏さまなのです。


 では、ここで言われている「人となす」とはどのような意味なのでしょうか。それぞれにいろんな味わいがあるとは思いますが、私は今、この「人となす」とは、「私が自分の人生を真正面から受け止めることができること」、つまり、「生まれてきてよかった。」と自分が人として生まれてきた人生に納得できる "いのちの視点(智慧)" を恵まれることと受け止めさせてもらっています。


 私たちは思い通りになることは比較的納得しやすいです。けれども私たちの人生は、思い通りにいくことよりも思い通りにならないことの方がはるかに多いです。そして、ときには自分ひとりでは受け止めきれないほどの悲しみにも出会っていかなければなりません。その自分ひとりでは受け止めきれないものと正面から向き合うために、一緒にその悲しみを背負い、乗り越え受け止めていくだけの智慧を与えてくださるのが「南無阿弥陀仏」のお念仏の仏さまでした。

 私の口からお念仏が出てくださるのは、阿弥陀さまが先手で私にはたらいてくださっているということでありました。ですから、お念仏を称えたから阿弥陀さまがはたらいてくださっているのではなく、私の口からお念仏が出ているということが阿弥陀さまのはたらきの中にあるということであり、まさに、お念仏を申しながら生きる人生を歩む中に、大きなはたらきによって自然と自分の人生をしかと受け止められる(人となる)人生が恵まれていくのでありました。


 「 花咲かす 見えぬ力を 春という

   人となす 見えぬ力を 仏という 」


 目には見えなくても、お念仏が出てくださっている ”今” ”ここ” に、まさに阿弥陀さまの私のいのちを支えるはたらきを感じながら過ごして参りたいと思います。


称名


誓林寺
http://seirinji.main.jp