梅雨の晴れ間の日差しがすっかり夏じみてきました。いよいよ夏がせまる中、境内に咲くアジサイたちは同じ株でもどれひとつとして同じ色はなく、今年もいろんな色で境内をキレイに彩ってくれています。雨が降れば、そのアジサイの上で、オタマジャクシから無事に成長した小さなカエルたちが嬉しそうに跳ね鳴いています。さまざまないのちの営みを感じながら今月も過ごして参りたいと思います。
さて、今月の掲示板の言葉は、愛知県出身の詩人、伊藤 千秋(旧姓:小山)さん(1970~)の『一日』という題の詩を書かせてもらいました。素朴な言葉の中にあたたかなものを感じることができるそんな詩です。この詩を読んでいると、前の日にケンカをしても、「おはよう」と言葉を交わしたならば、スッと心が近づいて仲直りできるような、しょんぼりしていても、元気な声で「おはよう」と声をかけられたなら元気をもらえるような、そんな不思議な力が「おはよう」という言葉にはあるような気がしてきます。
そんな風にこの詩では、お互いに「おはよう」とあいさつを交わすという何気ない場面から、心が通い合うことのよろこびが切り取られ詠まれています。そしてまた、あいさつを交わすのは、日常の中のほんの些細な瞬間かもしれませんが、その些細な瞬間が実は、「一日」を「うれしく」させるほど大切なことなんだ、という風にも読めてきます。
そんな大事な「あいさつ(挨拶)」は実は仏教用語なのだそうです。「挨(あい)」は「押す」、「拶(さつ)」は「せまる」という意味で、相手の心に押し迫ること。つまり、禅の師匠が弟子に押し問答をして悟りの深さを探ることを「挨拶」と言います。そこから意味が派生して、現在使われているような、誰かに会ったときや別れるときに交わす言葉のことを「あいさつ」と言うようになったそうです。その「あいさつ」の語源からうかがえば、「おはよう」という言葉にもきっと「相手の心に押し迫る」というはたらきがあるのでしょう。つまり、「おはよう」と声をかけられたとき、私の心が押し開かれていく。そして、その押し開かれた私の心が「おはよう」と応えていくとき、相手の心もまた押し開かれていきます。そうやって互いに心開かれていくからこそ、あいさつを通して心通わせ合っていくことができるのかもしれません。
さて、人と人が心を開き合う言葉が「おはよう」ならば、私と阿弥陀さまの心が開き合う言葉は「南無阿弥陀仏」のお念仏でした。「南無阿弥陀仏」と阿弥陀さまの声が私に聞こえるとき、私の心は、自己中心的な思いに閉じこもっている殻を破られ、まことの世界に心開かれていきます。具体的に言えば、私が腹を立てたり、過剰に自信を持ちすぎたり、逆に思い通りに行かなくて悲しんだり落ち込んだりするのは、全部自分の思いにとらわれすぎることによって起こってくることです。そんな私に阿弥陀さまはお念仏となって、「南無阿弥陀仏 また自分の思いにとらわれていないか?」と問いかけてくださるのです。そうやって、自分の思いの中に閉じこもれば閉じこもるほど苦しみを生んでいく私の心を開いてくださる言葉、それが「南無阿弥陀仏」のお念仏でした。そして、心開いてもらった私が阿弥陀さまに「ありがとうございます」と応える言葉も「南無阿弥陀仏」でありました。
そしてまた、私から阿弥陀さまへ自分では消化しきれない苦しみ悲しみの心を吐露し開いていく言葉も「南無阿弥陀仏」でありました。私が阿弥陀さまに「南無阿弥陀仏」とわが心を開いていくとき、阿弥陀さまもまた心を全開にして「南無阿弥陀仏 あぁ、そうか。苦しかったね。悲しかったね」と私の苦しみ悲しみを受け止めてくださるのです。そうやって、お念仏を通して阿弥陀さまの心のぬくもりにも触れていくのでした。ですから、お念仏を称えるということは、阿弥陀さまと心を通わせながら、対話をし、まことの心に触れていくということでありました。そんな阿弥陀さまと私のやりとりをこの詩に寄せて詠むならば、
「 なもあみだぶつ
その声がきこえるだけで
なもあみだぶつ
その言葉にこたえるだけで
ちゃんと ありがたい 一日になる 」
ということになるでしょうか。お互いさまに「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」とお念仏を称え、阿弥陀さまと心通わせながらまことに触れる「ありがたい」1日いちにちを過ごしていくことができたら嬉しいなと思います。
称名