10月の上旬は残暑厳しく日中は半袖で過ごしておりましたが、中旬に入り急に11月並みの寒さになり急いで分厚いふとんを引っ張り出しました。ほんの数日の間に季節が大きく変わり身体がなかなかついていきません。けれども、中旬以降、朝晩の冷え込みがようやく秋らしくなったおかげで、境内のイチョウやカエデがやっと紅葉の準備を始めたようです。11月末にはいよいよ報恩講を迎える予定です。その頃にはキレイに境内を染めてくれることを楽しみにしながら過ごして参りたいと思います。
さて、今月の掲示板の言葉は、児童精神科医であられた佐々木 正美(まさみ)さん(1935‐2017)の言葉を書かせていただきました。この言葉は、佐々木さんの著『なやみはつきねんだなぁ』において相田みつをさんの詩を紹介し解説されていた中で述べられた言葉です。精神科医としてたくさんの人の心と向き合ってこられた方の言葉だからこそ説得力を感じます。そしてこの言葉の中に、私たちが浄土真宗のみ教えを聞かせていただくことの大切さが示されているように思います。
そもそも、浄土真宗というみ教えは何のためにあるのかと言えば、私たちの心や生き方が豊かになるためにあるものです。そのみ教えについて中国の善導大師というお方は、み教えとは己自身を映し出す鏡のようなものであると仰います。普通の鏡は、私たちの姿を映し出してはくれますが、心の内側までは映し出すことはできません。その心の内側までを映し出してくれるもの、それがみ教えなのだということです。
では、なぜ己自身を知らされることで心や生き方が豊かになるのでしょうか?実は、それを示してくださっているのが今月の言葉だと思うのです。一つずつ順を追ってみていきたいと思います。まず、浄土真宗というみ教えの鏡は私をどのように映し出してくださるかというと、私を「煩悩具足の凡夫」であると示されます。つまり、完璧ないのちではないし、逆に縁さえ整ってしまえばなにをしでかすか分からない危うさを持ったいのちである、ということです。言い換えれば、私の周りで起こる誰かの失敗や過(あやま)ちはすべて他人事ではないんだ、ということです。
私自身がそのような存在であると知らされ、誰かの失敗を見て、「もしかしたら自分がしたことかもしれない」と思えたとき、はじめて相手を許すことができるのかもしれません。そんなふうに、私の本当のありさまを知らされれば知らされるほど、実は他者への心が開かれ、相手に共感する心と過ちを許す心が育てられていくのです。そして、それこそがまさに浄土真宗というみ教えが導いてくださる心豊かな世界なのでしょう。
けれども、いたらない自分を受け止めていくということはとても難しいことです。では、なぜみ教えを聞くことで自分のいたらなさを受け止めることができるのかと言えば、それは阿弥陀さまが私のいたらなさもすべて受け止めていてくださるからでした。つまり、「いたらない私も含めてまるっとすべて受け止められている」という安心感の中にあってはじめて、私たちは自分のいたらなさと正面から向き合っていくことができるのでしょう。そして、そうやって向き合い受け止めさせていただくことができるからこそ、他者のいたらなさにも心開いていくことができるのでした。
「 人間の「うそやごまかし」を許せる人は、
自分のなかのそれをよく知っている人であろう。 」
他者の失敗を何もかも許せるようなできた人にはなかなかなれそうもありませんが、せめてみ教えを聞かせていただき、いたらない私であると知らされる中で、ただ責めるのではなく、「自分も同じ失敗をしていたかもしれない」と相手の気持ちを汲(く)み取ろうとすることはできるようになりたいと思います。
合掌