「秋の日はつるべ落とし」とは本当にその通りで、気が付けばあっという間に日が落ちてしまうようになりました。そして日が経つにつれ朝晩の冷え込み方はますます厳しくなり、季節はもうすっかり冬になろうとしています。今月が終わればいよいよ今年もあとひと月となります。昨年に続き今年も新型コロナウイルスの影響を大きく受けた年になりました。新たな変異株も心配ですが、そんな中でもできることを自分なりに精一杯やっていきたいと思います。
さて、今月の掲示板の言葉は、私が好きな「ハンバートハンバート」というアーティストの『ぼくらの魔法』という曲のサビの歌詞を書かせてもらいました。この歌詞自体は直接阿弥陀さまのみ教えのお心を表すものではありませんが、しかし、この歌詞の中にみ教えに通ずるものがあるように思います。今回はそんなところを少し味わってみたいと思います。
私たちは「言葉」なくしては生きていくことができません。それほどまでに大事なもの、それが言葉です。しかし、言葉が万能かというとそうでもありませんでした。どれだけ大きな思いがあっても言葉にすれば思いは収まりきらず、収まりきらない思いはときにすれ違いを生んでいきます。そんなすれ違いがいつか大きな歪(ひず)みとなったとき私たちは「言葉」の限界を知るのかもしれません。その限界を知ったときの思いが「言葉なんて役立たずだ」というものなのでしょう。
しかし言葉によってすれ違い傷つく一方で、言葉によって生きる力をもらうこともまた事実です。それが「だけど知った言葉はいいね だから何度も言う愛してる」という歌詞に表されているのでしょう。ここで言われている「知った」とは、辞書的な意味を知識として知ったということではありませんでした。なぜなら、どれだけ辞書で「愛してる」という言葉の意味を知っても、それだけでは生きる支えとなる言葉にはならないからです。
では、この「知った」とはどのようなことかと言うと、「愛してる」というその言葉では収まりきらない相手を想う大きな心を「自分に向けてもらった」ということなのでしょう。私たちは、ただの言葉ではなく思いのこもった言葉に出会っていくとき、初めてその言葉を「知った」と言えるのかもしれません。そして、その言葉が自分を支えるほど大切なものであったときその言葉を「何度も言」いたくなるのかもしれません。
実は、「南無阿弥陀仏」のお念仏を「知る」ということも同じでした。どれだけ「南無阿弥陀仏」という言葉を辞書で調べても、そこに込められた思いに出遇(であ)っていかなければ本当にお念仏を「知る」ことはできません。実は、そのお念仏に込められた思いを聞いていくのが「お聴聞」でありました。そのお念仏に込められた思いを聞かせていただけば、「南無阿弥陀仏」とは、この私に向けて「あなたをどんなことがあっても見捨てたりはしない!」と阿弥陀さまが声となって思いを告げてくださっているお相(すがた)でありました。お念仏を称えれば、いつでもどこでも私を思う「言葉」が私に届いてくださる。それが私の本当の支えになっていくのです。
言葉によって振り回され続ける私ではありますが、「南無阿弥陀仏」のお念仏の言葉を「知った」からこそ、たった六字の「南無阿弥陀仏」が私を本当に支える「言葉」となってくださるのでしょう。そして、お念仏が本当に私を支えてくださる「言葉」であるからこそ「何度も」「南無阿弥陀仏」と称えさせていただく人生を歩ませていただくのでしょう。
「 言葉なんて役立たずだと ずっと大事にしてこなかった
だけど知った言葉はいいね だから何度も言う『南無阿弥陀仏』 」
称名