2022年5月31日火曜日

2022年5月の掲示板


 

 梅雨入りを前に猛暑日を記録し、初夏というよりはもう立派な夏を感じる5月です。この暑さのまま梅雨に突入すれば例年以上に蒸し暑くなりそうです。ここのところ、昔のようなしとしと雨はあまり降らなくなり、局地的な激しい雨が目立つようになってきました。水害が起こらないことを願いつつ、長雨に備えて過ごしてまいりたいと思います。


 さて、今月の掲示板の言葉は、いまや誓林寺の掲示板の常連となっている大阪のお念仏者であり詩人でもあられた榎本栄一さん(1903-1998)の「老若男女」という題の詩です。言葉自体は難しくありませんので読めば意味は伝わるのではないかと思いますが、私なりにこの詩を掘り下げて少しおみ法を味わってみたいと思います。


 「仏さまがふり向かれる」と聞くと京都の永観堂にいらっしゃる「みかえり阿弥陀像」が浮かんできます。榎本さんももしかしたら、このみかえり阿弥陀像をご覧になってこの詩を詠まれたのかもしれません。ちなみに、浄土真宗の阿弥陀さまには後ろ姿がない(つねに私と向き合い私を見続けてくださっている。そして、私に背を向けない=私を見捨てない。)とお聞かせいただきますので、ここでの「ふり向かれる」というのは、私たちのことが「気がかり」だということを表現されていると受け止めさせていただきたいと思います。


 では、なぜ阿弥陀さまは私たちのことが「気がかり」になるのかと言うと、阿弥陀さまにとって私たちは「他人」ではないからです。この他人ではないというのは、ただ単に「友人」や「家族」として見ておられるということではなく、そのような対人関係を越えて、本当に私たちのことを「自分のこと」として受け止めてくださっているということです。


 そして、その気がかりのタネは何かというと、私たちがお互いに傷つけ合いながら生きていることでありました。それはつまり、どちらかがいい思いをしても、もう一方が傷ついてしまったならば、すべてのいのちに思いをよせてくださっている阿弥陀さまにとっては、悲しみを感ぜずにはいられないということです。だからこそ、「老若男女(みんな)仲よくせよと誨(さと)される」のです。


 ただし、一方で、私たちは自己中心から抜け出せないからこそだれかを傷つけながらしか生きていけないと見抜いてくださったのも阿弥陀さまでした。そのことを踏まえたうえで「仲よくせよ」という言葉を味わうならば、この言葉は「『だれかを傷つけている』ということを自覚しながら生きていきなさい。」というふうに受け止められるのではないかと思います。


 つまり、私たちにとって一番問題なのは、傷つけていることに無自覚なことです。なぜなら、自覚がないからブレーキが利(き)かずにもっと傷つけてしまうことがあるからです。対して、仮に傷つけてしまっても、傷をつけてしまったと気づくことができたなら踏みとどまることもできるかもしれませんし、そのことを謝り反省することもできます。そして、その気づきを与えてくださるおはたらきこそが「南無阿弥陀仏」のお念仏でありました。


 そんなふうに「南無阿弥陀仏」が聞こえる日暮らしをさせていただくとき、傷つけ合うことは避けられなくてもお互いに「申し訳ない」と頭を下げ合いながら生きていけたなら、それが阿弥陀さまの仰っている私にできる「仲よくする」という姿なのではないかと思います。


  「 仏はいつも 人の世が気がかりで

    ふり向かれては 老若男女

    仲よくせよと 誨(さと)される 」


 自分の自己中心性にどこまでも鈍感な私ですが、お念仏の声にハッとさせていただきながら、「仲よく」過ごせるように努めてまいりたいと思います。

 

称名


誓林寺
http://seirinji.main.jp

2022年4月30日土曜日

2022年4月の掲示板


 

 4月にしては一足も二足も早い夏のような気温によって、中旬あたりから早々にフジやツツジが咲き出しています。山々も新緑になり、境内は目覚めたカエルたちの鳴き声で満たされています。目まぐるしく過ぎる日々の中にも季節の変化を感じながら過ごしてまいりたいと思います。


 さて、今月の掲示板の言葉は、歌手であり僧侶でもある二階堂和美さんの『負うて抱えて』というエッセイ集の中から一文を書かせていただきました。初見では難しい言葉かもしれませんが、浄土真宗のみ教えの大切な本質が語られていますので、少し掘り下げながら味わってみたいと思います。


 「断捨離」という言葉が世に浸透して久しくなりました。世間的に知られている「断捨離」とは、片付かない部屋を整理するために要らないものは断(た)ち、使わなくなったものは思い切って捨てる(処分する)というものではないかと思います。実はこの「断捨離」とは、ヨガの修行法の「断行・捨行・離行」から取られたものなのだそうです。どちらにしても、とらわれを離れていくことを表す言葉です。


 モノだけでなく、いろんな思いも断捨離していくことができたなら、私もきっともう少し上手に生きられるのだと思います。そして、そんなふうに ”モノ” や ”思い” というとらわれからどんどんと離れられるようになることを私たちは「仏法にめざめる」ことだと思いがちです。けれども、二階堂さんは、「仏法にめざめる姿というのは、断捨離とは違う。」と言われています。ちなみに、ここで言われている「仏法」には、「(浄土真宗の)仏法」という言葉が省略されています。


 では、浄土真宗の仏法とはどのような教えかというと、そもそもこの浄土真宗というみ教えは、自分でとらわれから離れられる人のための教えではありませんでした。むしろ、思い出したくないこともわざわざ思い出しては「あーしておけば、こーしておけば」と後悔から離れられず、自分の思いをなかなか捨てることができずに意固地になって身動きがとれなくなってしまう、このとらわれだらけの私のための教えでした。


 浄土真宗のみ教えは私のための教えであったと聞けば聞くほど、「断捨離」できずに自分の思いにとらわれ続けている私の姿がありありと見えてきます。そのことを二階堂さんは「愚かな自分から抜け出せないことを認め」ると言われているのです。けれども、自分の思いにとらわれた「愚かな自分」を受け入れていくことは簡単なことではありません。では、なぜ「認める」ことができるのかと言えば、ありのままの「愚かな自分」を受け入れてくださる存在があるからでした。その存在こそが阿弥陀さまでした。


 その阿弥陀さまに「愚かな自分」を受け入れられているということを感じていくことができるとき、お恥ずかしいことではありますが、捨てきれない後悔も悲しみも怒りも妬みも「全部抱えて生きていく」ことができるのでした。そんなふうに、等身大の私の姿を知らされ、それを「認め」ながら生きるということが、実は「よく見られたい」という私のとらわれから離れていくことなのかもしれません。けれども、その認めた姿はやっぱりとらわれだらけの姿ですから「断捨離」とは程遠い姿です。


  「 仏法にめざめる姿というのは、断捨離とは違う。

    愚かな自分から抜け出せないことを認めて、全部抱えて生きていく。」


 どこまでいっても自分の思いを捨てきれずに右往左往する毎日ですが、そのすべてを阿弥陀さまに受け止めてもらえていることに安心しつつ、しかし一方で、知らされる「愚かな自分」に恥ずかしさを感じながら、その愚かさも抱えて私が私として精一杯自分の人生を歩ませていただく。それが浄土真宗というみ教えでありました。


合掌


誓林寺
http://seirinji.main.jp

2022年2月28日月曜日

2022年2月の掲示板

 



 寒さが身に応え、なかなか外にも出にくい日が続いていましたが、ときおり射すあたたかなお日さまの光に誘われて少しずつ足も外に向かうようになりました。境内の梅も見頃になってきました。春の足音に耳をすませながら過ごしてまいりたいと思います。

 

 さて、今月の掲示板の言葉は、度々紹介している榎本 栄一さん(1903-1998)が書かれた「ゆっくり」という題の詩です。この詩がどのような背景で詠まれたものかは分かりませんが、おそらく、榎本さんが年を重ねるごとに歩くスピードがゆっくりになってきた、その中で気づかれたことをそのまま素朴に詠んでくださったそんな詩なのでしょう。素朴に詠んでくださったからこそ、 “気づき” の中にあるじんわりとしたよろこびがそのまま伝わってくるようです。

 

 歩くスピードが速ければその分遠くまで行くことができますが、道中の景色は目に入らないことが多くあります。逆に、いつも通る道であってもゆっくりと自分の足で歩いてみると全く違う景色が見え、知っている場所なのに新しい出会いがたくさんあります。榎本さんもゆっくりと歩くようになり、ときどき立ち止まったりもしながら、普段は見向きもしない道ばたに目をやったときに、地面に転がっているなんてことのない石ころが、お日さまの光に照らされて光っている、そんなことに気がついてくださったのでしょう。

 

 そして、ここからは私の味わいになりますが、榎本さんが「石ころ “も” 」と詠んでくださっているところに榎本さんのよろこびがにじみ出ているような気がします。というのも、この「も」というのは表面的に読めば、「みんなの目を引くような花だけでなく、道ばたの石ころも」ということなのかもしれませんが、実は、その「も」の中に自分自身も入れておられるのではないかなというふうに読めます。つまり、石ころがお日さまの光によって輝いているのを知ったときに、その光は自分にも降り注いでいたと感じてくださったのかもしれませんし、あるいは、その石ころそのものに自分を重ねてくださっていたのかもしれません。

 そして、念仏者であった榎本さんはきっとそこに阿弥陀さまのおはたらきを重ねて感じてよろこんでくださっていたことだろうと思います。つまり、誰も見向きもしないような道ばたの石ころにも日の光はしっかりと届き、石ころを石ころのままで光らせていたように、たとえ誰にも気づいてもらえなくなったとしても、この私のいのちをやむことなくこの姿のままに照らしてくださっている「南無阿弥陀仏」というお念仏の仏さまがいてくださった、そんなことを味わい詠んでくださった詩であるような気がします。

 

「 ゆっくりあるくようになり

  道ばたの石ころも

  光っているのをしり  」

 

 この人生も、順調なときは素通りしてしまって見えないことがたくさんありますが、うまくいかずに立ち止まったり、思うように進まないからこそ見えてくるものもあるのでしょう。そしてそんなときにこそ、阿弥陀さまの私を見つめ照らしていてくださる光がより強くあたたかく感じられるのでしょう。縁にふれ折にふれ、そんな阿弥陀さまの光を感じられる日を過ごしてまいりたいと思います。


合掌


誓林寺
http://seirinji.main.jp


2022年1月31日月曜日

2022年1月の掲示板

 



 早いもので令和の元号になってもう4年目になりました。今年もまたコロナの話題で持ちきりの年明けとなってしまいました。思い通りにはならない現実を突きつけられるたびに、「『一切皆苦』(すべてのものは思い通りにはならない)とお示しくださったお釈迦さまのお言葉はまことであったなぁ」と痛感します。その思い通りにならない現実とどのようにして向き合っていくのかを教えてくださるのが仏教でありました。このようなときだからこそ、おみ法をお聞かせいただきながら、現実と向き合って生きたいと思います。


 さて、今月の掲示板のお言葉は、日本の玩具コレクターで『開運!なんでも鑑定団』というテレビ番組にも出演されている北原照久(てるひさ)(1948-)さんが対談の中で語られた言葉なのだそうです。やさしい言葉でとても分かりやすく大事なことが言われているなぁと思います。

 私たちの体は食べたものから栄養をいただいて維持されていますから、この言葉の通り、私の「体は食べたものでつくられ」ているのでしょう。そして同じように、私たちの心はどんな言葉に触れてきたかによって心が豊かにも貧しくもなっていきます。だからこそ、「心は聞いた言葉でつくられる」と言われているのでしょう。


 今回は、「心は聞いた言葉でつくられる」という言葉について少し味わってみたいと思います。私事ですが、息子が2歳半になりずいぶんと会話ができるようになってきました。先日、息子の名前を「たかなし ○○くん」と呼ぶと、元気な声で「はーい」と返事をした後に、今度は私のことを「たかなし おとーちゃん」と呼び返してくれました。想定外の呼び名に思わず大きな声で「はーい!」と返事をしましたが、息子の中で私の存在がしっかりと「おとーちゃん」という名で受け止められているということが何よりも嬉しく思いました。


 「おとーちゃんだよ」と呼びかけ続けたその言葉が息子の中で親の存在を知る言葉となり、自発的に「おとーちゃん」と親を呼ぶ名(言葉)となっていったのでしょう。そして、「おとーちゃん」と自分から親を呼べるようになったとき、この「おとーちゃん」という言葉はただの言葉ではなく、親という存在が伴った言葉となっているのではないかと思います。なぜなら、「おとーちゃんだよ」と呼びかけられるときも「おとーちゃん」と呼ぶときにもそこには親の存在があるからです。そして、親と一緒にいる時間が安心であればあるほど、きっとこの「おとーちゃん」という言葉も安心の言葉となっていくのだと思うのです。息子にとって、「おとーちゃん」という言葉が安心の言葉であってくれることを切に願うばかりです。


 さて、私が息子に「おとーちゃんだよ」と呼びかけ続けていたように、この私に「いのちの親がここにいるぞ」と喚びかけ続けてくださっている方がいらっしゃいました。それが阿弥陀仏という仏さまでありました。その阿弥陀さまが私に喚びかけ続けてくださっている言葉こそ「南無阿弥陀仏」のお念仏なのです。息子が「おとーちゃんだよ」という呼び声の中で親の存在を知っていったように、私たちも「南無阿弥陀仏」と阿弥陀さまに喚びかけられ続ける中で初めていのちの親という存在を知っていくのでありました。

 そして、息子にとって「おとーちゃん」という言葉は親と一緒という状態もセットになっている言葉であるように、この「南無阿弥陀仏」のお念仏も常に阿弥陀さまとご一緒という状態がセットになって届いてくださっています。なぜなら、阿弥陀さまそのものが現れ出てくださっているのが「南無阿弥陀仏」のお念仏だからです。だからこそ、いつどこで称(とな)えても阿弥陀さまがご一緒してくださるのです。そのどんなときもご一緒くださる阿弥陀さまは、いつでもどこでもこの私のいのちをあたたかく優しく抱きとめてくださいます。そうやってお念仏を称えるたびにその阿弥陀さまのぬくもりに触れていくから、「南無阿弥陀仏」のお念仏そのものが私たちにとって安心の言葉となっていくのです。


 「  体は食べたものでつくられる

    心は聞いた言葉でつくられる  」


 阿弥陀さまは「どうかあなた(私)に安心を与えたい」と願ってくださったからこそ、どんなときもこのいのちに「南無阿弥陀仏」と届き私を受け止めてくださる仏さまとなってくださったのでありました。お互いさまに、お念仏を称え、「南無阿弥陀仏」の言葉を心に届けながら、安心の心豊かな人生を歩ませていただきたいと思います。


称名


誓林寺
http://seirinji.main.jp