2022年1月31日月曜日

2022年1月の掲示板

 



 早いもので令和の元号になってもう4年目になりました。今年もまたコロナの話題で持ちきりの年明けとなってしまいました。思い通りにはならない現実を突きつけられるたびに、「『一切皆苦』(すべてのものは思い通りにはならない)とお示しくださったお釈迦さまのお言葉はまことであったなぁ」と痛感します。その思い通りにならない現実とどのようにして向き合っていくのかを教えてくださるのが仏教でありました。このようなときだからこそ、おみ法をお聞かせいただきながら、現実と向き合って生きたいと思います。


 さて、今月の掲示板のお言葉は、日本の玩具コレクターで『開運!なんでも鑑定団』というテレビ番組にも出演されている北原照久(てるひさ)(1948-)さんが対談の中で語られた言葉なのだそうです。やさしい言葉でとても分かりやすく大事なことが言われているなぁと思います。

 私たちの体は食べたものから栄養をいただいて維持されていますから、この言葉の通り、私の「体は食べたものでつくられ」ているのでしょう。そして同じように、私たちの心はどんな言葉に触れてきたかによって心が豊かにも貧しくもなっていきます。だからこそ、「心は聞いた言葉でつくられる」と言われているのでしょう。


 今回は、「心は聞いた言葉でつくられる」という言葉について少し味わってみたいと思います。私事ですが、息子が2歳半になりずいぶんと会話ができるようになってきました。先日、息子の名前を「たかなし ○○くん」と呼ぶと、元気な声で「はーい」と返事をした後に、今度は私のことを「たかなし おとーちゃん」と呼び返してくれました。想定外の呼び名に思わず大きな声で「はーい!」と返事をしましたが、息子の中で私の存在がしっかりと「おとーちゃん」という名で受け止められているということが何よりも嬉しく思いました。


 「おとーちゃんだよ」と呼びかけ続けたその言葉が息子の中で親の存在を知る言葉となり、自発的に「おとーちゃん」と親を呼ぶ名(言葉)となっていったのでしょう。そして、「おとーちゃん」と自分から親を呼べるようになったとき、この「おとーちゃん」という言葉はただの言葉ではなく、親という存在が伴った言葉となっているのではないかと思います。なぜなら、「おとーちゃんだよ」と呼びかけられるときも「おとーちゃん」と呼ぶときにもそこには親の存在があるからです。そして、親と一緒にいる時間が安心であればあるほど、きっとこの「おとーちゃん」という言葉も安心の言葉となっていくのだと思うのです。息子にとって、「おとーちゃん」という言葉が安心の言葉であってくれることを切に願うばかりです。


 さて、私が息子に「おとーちゃんだよ」と呼びかけ続けていたように、この私に「いのちの親がここにいるぞ」と喚びかけ続けてくださっている方がいらっしゃいました。それが阿弥陀仏という仏さまでありました。その阿弥陀さまが私に喚びかけ続けてくださっている言葉こそ「南無阿弥陀仏」のお念仏なのです。息子が「おとーちゃんだよ」という呼び声の中で親の存在を知っていったように、私たちも「南無阿弥陀仏」と阿弥陀さまに喚びかけられ続ける中で初めていのちの親という存在を知っていくのでありました。

 そして、息子にとって「おとーちゃん」という言葉は親と一緒という状態もセットになっている言葉であるように、この「南無阿弥陀仏」のお念仏も常に阿弥陀さまとご一緒という状態がセットになって届いてくださっています。なぜなら、阿弥陀さまそのものが現れ出てくださっているのが「南無阿弥陀仏」のお念仏だからです。だからこそ、いつどこで称(とな)えても阿弥陀さまがご一緒してくださるのです。そのどんなときもご一緒くださる阿弥陀さまは、いつでもどこでもこの私のいのちをあたたかく優しく抱きとめてくださいます。そうやってお念仏を称えるたびにその阿弥陀さまのぬくもりに触れていくから、「南無阿弥陀仏」のお念仏そのものが私たちにとって安心の言葉となっていくのです。


 「  体は食べたものでつくられる

    心は聞いた言葉でつくられる  」


 阿弥陀さまは「どうかあなた(私)に安心を与えたい」と願ってくださったからこそ、どんなときもこのいのちに「南無阿弥陀仏」と届き私を受け止めてくださる仏さまとなってくださったのでありました。お互いさまに、お念仏を称え、「南無阿弥陀仏」の言葉を心に届けながら、安心の心豊かな人生を歩ませていただきたいと思います。


称名


誓林寺
http://seirinji.main.jp