2022年2月28日月曜日

2022年2月の掲示板

 



 寒さが身に応え、なかなか外にも出にくい日が続いていましたが、ときおり射すあたたかなお日さまの光に誘われて少しずつ足も外に向かうようになりました。境内の梅も見頃になってきました。春の足音に耳をすませながら過ごしてまいりたいと思います。

 

 さて、今月の掲示板の言葉は、度々紹介している榎本 栄一さん(1903-1998)が書かれた「ゆっくり」という題の詩です。この詩がどのような背景で詠まれたものかは分かりませんが、おそらく、榎本さんが年を重ねるごとに歩くスピードがゆっくりになってきた、その中で気づかれたことをそのまま素朴に詠んでくださったそんな詩なのでしょう。素朴に詠んでくださったからこそ、 “気づき” の中にあるじんわりとしたよろこびがそのまま伝わってくるようです。

 

 歩くスピードが速ければその分遠くまで行くことができますが、道中の景色は目に入らないことが多くあります。逆に、いつも通る道であってもゆっくりと自分の足で歩いてみると全く違う景色が見え、知っている場所なのに新しい出会いがたくさんあります。榎本さんもゆっくりと歩くようになり、ときどき立ち止まったりもしながら、普段は見向きもしない道ばたに目をやったときに、地面に転がっているなんてことのない石ころが、お日さまの光に照らされて光っている、そんなことに気がついてくださったのでしょう。

 

 そして、ここからは私の味わいになりますが、榎本さんが「石ころ “も” 」と詠んでくださっているところに榎本さんのよろこびがにじみ出ているような気がします。というのも、この「も」というのは表面的に読めば、「みんなの目を引くような花だけでなく、道ばたの石ころも」ということなのかもしれませんが、実は、その「も」の中に自分自身も入れておられるのではないかなというふうに読めます。つまり、石ころがお日さまの光によって輝いているのを知ったときに、その光は自分にも降り注いでいたと感じてくださったのかもしれませんし、あるいは、その石ころそのものに自分を重ねてくださっていたのかもしれません。

 そして、念仏者であった榎本さんはきっとそこに阿弥陀さまのおはたらきを重ねて感じてよろこんでくださっていたことだろうと思います。つまり、誰も見向きもしないような道ばたの石ころにも日の光はしっかりと届き、石ころを石ころのままで光らせていたように、たとえ誰にも気づいてもらえなくなったとしても、この私のいのちをやむことなくこの姿のままに照らしてくださっている「南無阿弥陀仏」というお念仏の仏さまがいてくださった、そんなことを味わい詠んでくださった詩であるような気がします。

 

「 ゆっくりあるくようになり

  道ばたの石ころも

  光っているのをしり  」

 

 この人生も、順調なときは素通りしてしまって見えないことがたくさんありますが、うまくいかずに立ち止まったり、思うように進まないからこそ見えてくるものもあるのでしょう。そしてそんなときにこそ、阿弥陀さまの私を見つめ照らしていてくださる光がより強くあたたかく感じられるのでしょう。縁にふれ折にふれ、そんな阿弥陀さまの光を感じられる日を過ごしてまいりたいと思います。


合掌


誓林寺
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