4月にしては一足も二足も早い夏のような気温によって、中旬あたりから早々にフジやツツジが咲き出しています。山々も新緑になり、境内は目覚めたカエルたちの鳴き声で満たされています。目まぐるしく過ぎる日々の中にも季節の変化を感じながら過ごしてまいりたいと思います。
さて、今月の掲示板の言葉は、歌手であり僧侶でもある二階堂和美さんの『負うて抱えて』というエッセイ集の中から一文を書かせていただきました。初見では難しい言葉かもしれませんが、浄土真宗のみ教えの大切な本質が語られていますので、少し掘り下げながら味わってみたいと思います。
「断捨離」という言葉が世に浸透して久しくなりました。世間的に知られている「断捨離」とは、片付かない部屋を整理するために要らないものは断(た)ち、使わなくなったものは思い切って捨てる(処分する)というものではないかと思います。実はこの「断捨離」とは、ヨガの修行法の「断行・捨行・離行」から取られたものなのだそうです。どちらにしても、とらわれを離れていくことを表す言葉です。
モノだけでなく、いろんな思いも断捨離していくことができたなら、私もきっともう少し上手に生きられるのだと思います。そして、そんなふうに ”モノ” や ”思い” というとらわれからどんどんと離れられるようになることを私たちは「仏法にめざめる」ことだと思いがちです。けれども、二階堂さんは、「仏法にめざめる姿というのは、断捨離とは違う。」と言われています。ちなみに、ここで言われている「仏法」には、「(浄土真宗の)仏法」という言葉が省略されています。
では、浄土真宗の仏法とはどのような教えかというと、そもそもこの浄土真宗というみ教えは、自分でとらわれから離れられる人のための教えではありませんでした。むしろ、思い出したくないこともわざわざ思い出しては「あーしておけば、こーしておけば」と後悔から離れられず、自分の思いをなかなか捨てることができずに意固地になって身動きがとれなくなってしまう、このとらわれだらけの私のための教えでした。
浄土真宗のみ教えは私のための教えであったと聞けば聞くほど、「断捨離」できずに自分の思いにとらわれ続けている私の姿がありありと見えてきます。そのことを二階堂さんは「愚かな自分から抜け出せないことを認め」ると言われているのです。けれども、自分の思いにとらわれた「愚かな自分」を受け入れていくことは簡単なことではありません。では、なぜ「認める」ことができるのかと言えば、ありのままの「愚かな自分」を受け入れてくださる存在があるからでした。その存在こそが阿弥陀さまでした。
その阿弥陀さまに「愚かな自分」を受け入れられているということを感じていくことができるとき、お恥ずかしいことではありますが、捨てきれない後悔も悲しみも怒りも妬みも「全部抱えて生きていく」ことができるのでした。そんなふうに、等身大の私の姿を知らされ、それを「認め」ながら生きるということが、実は「よく見られたい」という私のとらわれから離れていくことなのかもしれません。けれども、その認めた姿はやっぱりとらわれだらけの姿ですから「断捨離」とは程遠い姿です。
「 仏法にめざめる姿というのは、断捨離とは違う。
愚かな自分から抜け出せないことを認めて、全部抱えて生きていく。」
どこまでいっても自分の思いを捨てきれずに右往左往する毎日ですが、そのすべてを阿弥陀さまに受け止めてもらえていることに安心しつつ、しかし一方で、知らされる「愚かな自分」に恥ずかしさを感じながら、その愚かさも抱えて私が私として精一杯自分の人生を歩ませていただく。それが浄土真宗というみ教えでありました。
合掌