梅雨入りを前に猛暑日を記録し、初夏というよりはもう立派な夏を感じる5月です。この暑さのまま梅雨に突入すれば例年以上に蒸し暑くなりそうです。ここのところ、昔のようなしとしと雨はあまり降らなくなり、局地的な激しい雨が目立つようになってきました。水害が起こらないことを願いつつ、長雨に備えて過ごしてまいりたいと思います。
さて、今月の掲示板の言葉は、いまや誓林寺の掲示板の常連となっている大阪のお念仏者であり詩人でもあられた榎本栄一さん(1903-1998)の「老若男女」という題の詩です。言葉自体は難しくありませんので読めば意味は伝わるのではないかと思いますが、私なりにこの詩を掘り下げて少しおみ法を味わってみたいと思います。
「仏さまがふり向かれる」と聞くと京都の永観堂にいらっしゃる「みかえり阿弥陀像」が浮かんできます。榎本さんももしかしたら、このみかえり阿弥陀像をご覧になってこの詩を詠まれたのかもしれません。ちなみに、浄土真宗の阿弥陀さまには後ろ姿がない(つねに私と向き合い私を見続けてくださっている。そして、私に背を向けない=私を見捨てない。)とお聞かせいただきますので、ここでの「ふり向かれる」というのは、私たちのことが「気がかり」だということを表現されていると受け止めさせていただきたいと思います。
では、なぜ阿弥陀さまは私たちのことが「気がかり」になるのかと言うと、阿弥陀さまにとって私たちは「他人」ではないからです。この他人ではないというのは、ただ単に「友人」や「家族」として見ておられるということではなく、そのような対人関係を越えて、本当に私たちのことを「自分のこと」として受け止めてくださっているということです。
そして、その気がかりのタネは何かというと、私たちがお互いに傷つけ合いながら生きていることでありました。それはつまり、どちらかがいい思いをしても、もう一方が傷ついてしまったならば、すべてのいのちに思いをよせてくださっている阿弥陀さまにとっては、悲しみを感ぜずにはいられないということです。だからこそ、「老若男女(みんな)仲よくせよと誨(さと)される」のです。
ただし、一方で、私たちは自己中心から抜け出せないからこそだれかを傷つけながらしか生きていけないと見抜いてくださったのも阿弥陀さまでした。そのことを踏まえたうえで「仲よくせよ」という言葉を味わうならば、この言葉は「『だれかを傷つけている』ということを自覚しながら生きていきなさい。」というふうに受け止められるのではないかと思います。
つまり、私たちにとって一番問題なのは、傷つけていることに無自覚なことです。なぜなら、自覚がないからブレーキが利(き)かずにもっと傷つけてしまうことがあるからです。対して、仮に傷つけてしまっても、傷をつけてしまったと気づくことができたなら踏みとどまることもできるかもしれませんし、そのことを謝り反省することもできます。そして、その気づきを与えてくださるおはたらきこそが「南無阿弥陀仏」のお念仏でありました。
そんなふうに「南無阿弥陀仏」が聞こえる日暮らしをさせていただくとき、傷つけ合うことは避けられなくてもお互いに「申し訳ない」と頭を下げ合いながら生きていけたなら、それが阿弥陀さまの仰っている私にできる「仲よくする」という姿なのではないかと思います。
「 仏はいつも 人の世が気がかりで
ふり向かれては 老若男女
仲よくせよと 誨(さと)される 」
自分の自己中心性にどこまでも鈍感な私ですが、お念仏の声にハッとさせていただきながら、「仲よく」過ごせるように努めてまいりたいと思います。
称名