2021年もいろいろとありましたが、いよいよ新年を迎えようとしています。12月に入り一段と寒くなり、長沢でも久しぶりに雪を見ました。各地でも大雪が降っているようです。どうか大きな被害が出ないことを願うばかりです。法味豊かな2022年を迎えることができるように今年最後の月もお念仏にお育てをいただきながら過ごしてまいりたいと思います。
さて、2021年最後の掲示板の言葉は、鈴木 章子(あやこ)さん(1941‐1988)の『癌(がん)告知のあとで』という本の中で紹介された詩の言葉を書かせていただきました。鈴木さんは43歳の時にガンが見つかり闘病生活を送る中で、阿弥陀さまのおはたらきを支えとし、真正面からガンと向き合いながら47年の人生を生き抜いていかれました。この度の詩はその中でも、鈴木さんの人生最後の詩となったもので、その身を、その人生を通して味わってくださったおみ法(のり)のおこころを実感のこもった言葉で紡(つむ)いでくださったものです。
詩の中に「念仏」と出てきますが、宗祖親鸞聖人はこの「念仏」のことを「智慧の念仏」とお示しくださいます。「智慧の念仏」とはつまり、お念仏(「南無阿弥陀仏」と称(とな)えること)は呪文でもなく、こちらから阿弥陀さまにお願いするためのものでもなく、阿弥陀さまの智慧の光にこのいのちを照らされることなのだとお示しくださったのです。では、阿弥陀さまの智慧の光にいのちを照らされるとはどのようなことなのでしょうか?
私たちは、この身に起こってくる様々なことを、自分の価値観というフィルターを通して受け止めていきます。たとえば、自分にとって嬉しいことは「いい事」として、自分にとってつまらないことは「わるい事」として受け止めていきます。そして、この私は「いい事」はすぐに受け止めることができますが、「わるい事」はなかなか受け止めることができません。それゆえ、私は「わるい事」からついつい目を逸(そ)らしがちになってしまいます。
けれども、どれだけ目を逸らしたくても逸らせないものがあります。それが、この私自身のいのちでありました。私たちは自分のいのちを離れては生きてはいけません。それゆえ、この身において「わるい事」が起こった時、目を逸らせども逸らせども自分にとって都合の「わるい」自分の姿が見えてきます。そうなると、せっかくの大切な自分のいのちを嘆きながら生きていかなければなりません。
そんな私のいのちのあり様を阿弥陀さまが見抜いてくださったからこそ、阿弥陀さまは「智慧の念仏」となって私のいのちに「南無阿弥陀仏」と届いてくださったのです。このお念仏の智慧の光に照らされるとき、自分の都合によって見えなくなってしまっていた大事なものに気がつかされていきます。そして、大事なことに気がつかされたとき、「わるい事」が「いい事」になることはなかなかありませんが、「意味のある事」に変えられていきます。「わるい事」が「意味のある事」だと知らされたとき、初めてその事実と向き合い受け止めていくことができるのでしょう。
鈴木さんもガンというなかなか受け止め難い現実に対して、お念仏のお育てに遇(あ)う中で、ガンとも真正面から向き合い受け止めて、自分の人生に「納得」しながらその人生を精一杯生き抜いていかれたのでしょう。だからこそ、
「 念仏は 私にただ今の身を
納得していただいていく力を
与えてくださる 」
と詠んでくださったのでありました。自分ひとりでは受け止めきれないことが起こってくるこの人生だからこそ、お念仏の光に照らされ、誰にも代わってもらえないこの人生を私自身が「納得」させてもらいながら、「ありがたい人生であった」と言えるように過ごしてまいりたいと思います。
称名
0 件のコメント:
コメントを投稿