8月も間近だというのにまだ梅雨明けが来ず、今年は長い梅雨となりました。全国各地の豪雨によって被災されている方々に心からお見舞い申し上げます。しばらく落ち着いていたかに見えた新型コロナウイルスの感染者数も再び増え始め、予断を許さない状況になりつつあります。度重なる災難に不安が募り、心暗くなることが多いですが、このような時だからこそ、本当の心の灯(=よりどころ)となるおみ法(のり)をともにお聞かせいただきながら過ごして参りたいと思います。
さて、今月の掲示板の言葉は、BUMP OF CHICKEN(バンプ オブ チキン)というバンドの『supernova(スーパーノヴァ)』という曲の歌詞を書かせてもらいました。とてもストレートな歌詞なので内容についての解説は要らないと思いますが、歌詞の通り、私たちは得てして”失ったときに初めて気付く”ということが多くあるように思います。
体があるということも、熱が出て不自由になったときになってやっと気付き、当たり前のように息をしていることも、鼻が詰まって息がしづらくなってやっと今まで息をしていたことに気付けます。当たり前の日常がどれほどに有難いことなのかということも、新型コロナウイルスによって当たり前の日常が奪われて初めて気付けたように思います。しかしながら、日常が少し取り戻せてしまうと、また「当たり前」に埋もれてしまう私がここにいます。
親や友人、パートナーの大切さは日々感じていますが、しかしそれさえも、いつも側に居てくれる「当たり前」にかまけてしまって大切にできないことがたくさんあります。大切な人が、自分にとってどれだけ大きな存在なのかは、失くしたときになってやっと実感できるのかもしれません。
このように、私たちは失わないと気付けないことがたくさんあります。中には「失ったからこそ気付けて良かった」ということもあるでしょう。けれども、失ってからでは遅いものもあります。それは、私の人生です。私の人生がどれだけ大事な人生であったのかということが、いのち終わった後にならなければ分からないのであれば、私たちは一生自分のいのちの意味が分からないまま生きていかなければならなくなってしまいます。
そうはさせまいと立ち上がってくださったのが「南無阿弥陀仏」の仏さまでありました。阿弥陀さまは、大事なことを見失ってばかりのこの私に、いのちの意味までも見失わせてなるものかと「南無阿弥陀仏」のお念仏となって私のもとにいたり届いてくださり、「あなたのいのち、いつどこでどんな風に終えようとも、必ずお浄土に生まれ仏となる身に私が仕上げたから、どうかそのいのち、仏さまになる尊い人生として歩んでおくれ。」と喚びかけてくださいます。
失わなければなかなか大事なことに気付けない私ですが、失わなくても気付けることがありました。それは、私の口に「南無阿弥陀仏」とお念仏が出てくださっているということです。お念仏が出てくださっているということは、私のこのいのちは、いつどこでどんな風に終えようとも阿弥陀さまによって必ず仏さまにならせていただく尊いいのちであるということです。
「 熱が出たりすると気付くんだ 僕にも体があるって事
鼻が詰まったりすると解るんだ 今まで呼吸をしていた事 」
けれども、
「 お念仏が出ると わかるんだ
このいのち 決してむなしく終わらないということ 」
目まぐるしく変わる日常に、大事なことを見失いながらしか生きられない私たちですが、私のいのちの意味という一番大切なものだけは見失わないように、阿弥陀さまのお喚び声、「南無阿弥陀仏」のお念仏をわが口に称え耳に聞きながら過ごして参りたいと思います。
称名
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