いろんなことがありましたが、おかげさまで新しい年を迎えることができました。この度の年末年始には大型の寒波が押し寄せ、厳しい寒さの日が続いています。また、新型コロナウイルスのさらなる感染拡大により収束も一向に見えない状況になっており、今年は手放しで「あけましておめでとうございます」とは言いにくいお正月となりました。ただでさえ寒さで体調を崩しやすくなっていますので、お互いさまにできるだけ身体を冷やさないように、自分を労わりながら過ごして参りたいと思います。
さて、今月の掲示板の言葉は、新年を迎えた1月らしいおうたを書かせてもらいました。このおうたは、私の滋賀の実家の大お婆さん(藤澤よね尾さん)が作ったもので、昨年この大お婆さんの50回忌をお勤めしたときに、「よね尾さんのこんなうたが出てきたよ」と教えてもらったものの1つです。私はよね尾さんに出会ったことはないですが、素朴なおうたを読んでいると、素直にみ教えに身をゆだねながらお念仏を称えている姿が目に浮かんできます。そんなおうたを今月もまた私なりに味わわせていただきたいと思います。
このおうたは、初日の出が地平線(あるいは水平線)の下から何かに押し上げられるようにして出てくるように、私たちが称えるお念仏もまた、私の体の内側から阿弥陀さまのおはたらきによって押し出されるようにして出てくる、そんなことを詠まれたものなのでしょう。そしてまた、朝日昇るその雄大な姿に引かれるように思わずお念仏がこぼれ出た、そんな瞬間を詠まれたものとも受け止められそうです。どちらにせよ、この「おしでる」という表現の中に浄土真宗のお念仏の受け止め方が顕れているなぁと思います。
人知れず悩みや苦しみを抱えながら生きていかなければならない私に、「その苦しみも悲しみも私がちゃんと知っているよ。私が一緒にその悲しみを背負っているよ。」と阿弥陀さまの方から私に告げてくださる相(すがた)がお念仏であり、私の口をして「南無阿弥陀仏」とお念仏申させたはたらきのことを「本願力(ほんがんりき)」と呼ぶのでした。そして、私の口をして「南無阿弥陀仏」とお念仏申させたのと全く同じはたらきによって、私のいのちはお浄土に生まれ、仏さまとならさせていただくのでした。だからこそ、お念仏が出てくださる「今」「ここ」で、「私は必ずお浄土に生まれ仏さまにならせていただくんだ。」と言わせてもらうことができるのです。
私事ですが、最近、1歳半になる息子が、お念珠を持つと手を合わせて「なーん(南無阿弥陀仏)」と言うようになりました。その姿がなんとも嬉しく、また尊いなぁと感じます。1歳半の子どものお念仏の姿が尊いのは、だれがいつどこでどのようにお念仏を称えようと、全くおなじ阿弥陀さまという仏さまが出てきてくださっているからなのでしょう。そして、お念仏申すその姿が嬉しいのは、小さな小さなその体にも確かに阿弥陀さまのおはたらきが届いていることがお念仏を通して分かるからでありました。お念仏の姿の中に、阿弥陀さまのおはたらきを確かに感じていくことができる。それが浄土真宗というみ教えでありました。
「 初日の出
共におしでる
お念仏 」
全くおなじ阿弥陀さまのおはたらきをいただく「お同行」として、ともにお念仏がわが身から「おしでて」くださることを喜び合いながら、本年も過ごして参りたいと思います。
称名
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