2021年1月12日火曜日

2021年1月の掲示板

 



 いろんなことがありましたが、おかげさまで新しい年を迎えることができました。この度の年末年始には大型の寒波が押し寄せ、厳しい寒さの日が続いています。また、新型コロナウイルスのさらなる感染拡大により収束も一向に見えない状況になっており、今年は手放しで「あけましておめでとうございます」とは言いにくいお正月となりました。ただでさえ寒さで体調を崩しやすくなっていますので、お互いさまにできるだけ身体を冷やさないように、自分を労わりながら過ごして参りたいと思います。

 

 さて、今月の掲示板の言葉は、新年を迎えた1月らしいおうたを書かせてもらいました。このおうたは、私の滋賀の実家の大お婆さん(藤澤よね尾さん)が作ったもので、昨年この大お婆さんの50回忌をお勤めしたときに、「よね尾さんのこんなうたが出てきたよ」と教えてもらったものの1つです。私はよね尾さんに出会ったことはないですが、素朴なおうたを読んでいると、素直にみ教えに身をゆだねながらお念仏を称えている姿が目に浮かんできます。そんなおうたを今月もまた私なりに味わわせていただきたいと思います。

 

 このおうたは、初日の出が地平線(あるいは水平線)の下から何かに押し上げられるようにして出てくるように、私たちが称えるお念仏もまた、私の体の内側から阿弥陀さまのおはたらきによって押し出されるようにして出てくる、そんなことを詠まれたものなのでしょう。そしてまた、朝日昇るその雄大な姿に引かれるように思わずお念仏がこぼれ出た、そんな瞬間を詠まれたものとも受け止められそうです。どちらにせよ、この「おしでる」という表現の中に浄土真宗のお念仏の受け止め方が顕れているなぁと思います。

  

 一般的にお念仏とは「仏を念ずる」、つまり、私が仏さまに向かって心を整えて称えるものという風にとらえられています。もちろん、浄土真宗でもそのように言うこともありますが、宗祖親鸞聖人は、お念仏は「念じてくださる仏さま」なんだと教えてくださいました。つまり、私が仏さまを念ずるよりも先に、阿弥陀さまが悩み苦しみながら生きている私の姿を案じて念じてくださっている相(すがた)、それこそがお念仏なんだということです。


 人知れず悩みや苦しみを抱えながら生きていかなければならない私に、「その苦しみも悲しみも私がちゃんと知っているよ。私が一緒にその悲しみを背負っているよ。」と阿弥陀さまの方から私に告げてくださる相(すがた)がお念仏であり、私の口をして「南無阿弥陀仏」とお念仏申させたはたらきのことを「本願力(ほんがんりき)」と呼ぶのでした。そして、私の口をして「南無阿弥陀仏」とお念仏申させたのと全く同じはたらきによって、私のいのちはお浄土に生まれ、仏さまとならさせていただくのでした。だからこそ、お念仏が出てくださる「今」「ここ」で、「私は必ずお浄土に生まれ仏さまにならせていただくんだ。」と言わせてもらうことができるのです。


 私事ですが、最近、1歳半になる息子が、お念珠を持つと手を合わせて「なーん(南無阿弥陀仏)」と言うようになりました。その姿がなんとも嬉しく、また尊いなぁと感じます。1歳半の子どものお念仏の姿が尊いのは、だれがいつどこでどのようにお念仏を称えようと、全くおなじ阿弥陀さまという仏さまが出てきてくださっているからなのでしょう。そして、お念仏申すその姿が嬉しいのは、小さな小さなその体にも確かに阿弥陀さまのおはたらきが届いていることがお念仏を通して分かるからでありました。お念仏の姿の中に、阿弥陀さまのおはたらきを確かに感じていくことができる。それが浄土真宗というみ教えでありました。


 「 初日の出

   共におしでる

   お念仏 」


 全くおなじ阿弥陀さまのおはたらきをいただく「お同行」として、ともにお念仏がわが身から「おしでて」くださることを喜び合いながら、本年も過ごして参りたいと思います。


称名


誓林寺
http://seirinji.main.jp





2020年12月19日土曜日

2020年12月の掲示板

 


 新型コロナウイルス一色の令和2年もいよいよあとわずかとなりました。そして、季節感を欠いた暖かい日もとうとう終わりを告げ、本格的な寒さがやってきました。毎日寒さに身を縮めていますが、朝の澄んだ空気が肺まで入ると体がシャキッとするので、寝ぼけた体にはちょうどいいのかもしれません。とはいえ、世間は本当に油断できない状況になってきました。くれぐれも体調には気を付けて年末年始を迎えたいと思います。


 さて、今月の掲示板の言葉は、前にも一度ご紹介した本山の御正忌報恩講(親鸞聖人のご命日法要 1月9日~16日)に際して毎年ご門徒のみなさまから募集される「御法楽献詠(ごほうらくけんえい)」に入選したおうたのひとつです。今月もおうたの言葉を読み解きながらおみ法を味わってみたいと思います。


 「うつし世」は「現世」とも書くように、今私たちが生きているこの世界のことを指します。私たちの生きるこの世界は、もちろん楽しいことも嬉しいこともありますが、それだけでは決して済まず、なかなか思うようにいかずに苦しんだり、時には言葉を失うほどの悲しみにも出遭っていかなければならないのがこの世界でありました。だからこそ、仏教ではこの世界のことを「娑婆(しゃば)=堪忍土(かんにんど)」、つまり、「苦しみ・悲しみ」を耐え忍んでいかなければならない世界と呼ぶのでしょう。


 この度の新型コロナウイルスも日に日に深刻化し、理不尽に多くの苦しみを生んでいます。今の状況は、まさに「生き難い」この世界の姿が顕著になっている状況と言ってもいいのかもしれません。では、私たちはこの生き難い世の中を、ただただ苦しみを堪(こら)えながら生きていかなければならないのでしょうか。否、作者の新道さんは「生き難いからこそ」と仰います。おうたの続きを読むと、「ゆったりと 大悲の風に この身まかせむ」と言われています。


 「大悲の風」とは、阿弥陀さまが私のいのちを底から支えんとしてくださるはたらき(大悲)を「風」にたとえてくださったものです。生き難いうつし世の風が、身も心も刺す冬の凍(い)てつくような風ならば、「大悲の風」とは、冬に積もり積もった雪や氷を解かす春のあたたかな風なのでしょう。春の風が無理なく自然に逆らわず穏やかに冷たい雪を解かしていくように、阿弥陀さまの大悲の風もまた、私たちに負担をかけず、それぞれのペースに合わせて無理なく、悲しみに冷え切った私たちの心をあたためて解かしてくださる、そんな風なのでしょう。つまり、それぞれが「苦しみ・悲しみ」をしっかりと受け止めることができるまで、気長にずーっと「苦しみ・悲しみ」をともにしながら支えてくださるのが阿弥陀さまでありました。急がなくても焦らなくてもいいように、私たちひとり一人に合わせて吹いてくださる「大悲の風」。だからこそ、「ゆったりと」この身を預けていくことができるのでした。


  「 生き難き うつし世ゆゑに 

    ゆったりと 大悲の風に この身まかせむ 」


 厳しいうつし世の風は幾度となくこの私の身に吹きかかりますが、だからこそ、私の心をあたためんとはたらき続けてくださっている阿弥陀さまの「大悲の風」を感じながらこの冬も乗り越えていきたいと思います。


合掌


誓林寺
http://seirinji.main.jp


2020年11月30日月曜日

2020年11月の掲示板

 



 報恩講を彩ってくれたイチョウの木もすっかり散りましたが、その下には黄色の絨毯が敷かれています。境内の木々は日に日に葉の衣を失い見た目も寒そうです。空には冬らしい低く暗い雲がかかるようになり、いよいよ身の冷える季節がやってきそうな気配がします。この冬は寒くなるそうですから、身も心もあたたかくして冬を迎えたいと思います。


 さて、今月の掲示板の言葉は、真宗僧侶の東井義雄先生(1912‐1991)のお言葉を書かせてもらいました。 言葉の解説は必要ないと思いますが、この詩をもってなにをあらわさんとしてくださっているのかを少し味わってみたいと思います。


 私事ですが先々月あたりから、息子が外を歩くようになりました。運動量が格段に増え、動き回って疲れたあとは、親にひざ上で抱っこされると眠さに抗(あらが)いきれずそのままぐっすりと寝てしまいます。親に身をゆだねながらひざの上でスヤスヤと眠る息子の姿と、今月の掲示板の言葉が重なります。

 

 寝ている息子はきっと抱かれているということも忘れて夢の中にいますが、しかし、親に抱かれているからこそ確かに伝わる温もりの中に安心しきって眠っているのでしょう。子が親の存在に気付いても気付かなくてもわが子を抱くその姿が、“いのちの親さま”である阿弥陀さまのおはたらきに重なってきます。

 

 阿弥陀さまは、私が阿弥陀さまに気付く前から、「大事なあなたのいのち、この阿弥陀が必ずお浄土に生まれさせ、仏にしてみせる。そのいのち、決して無駄ないのちにはさせない。」と私を抱いてくださる仏さまでありました。その抱かれる温もりの中にあってこそ、私は阿弥陀さまのはたらきに気付くことができるのです。そして、気付いたときにはいつでももうすでに阿弥陀さまの腕の中でありました。


   「 きづかなくても

     大いなる

     親のひざの上  」

 

 浄土真宗のみ教えは、これからどうしていくのかを聞く教えではなく、今すでに私のいのちをしっかりと抱いていてくださるいのちの親さま、阿弥陀さまがいてくださることを聞かせていただく教えでありました。そして、阿弥陀さまに抱かれている安らぎを感じながら生きるということが浄土真宗のみ教えに生きるということでありました。

 

合掌


誓林寺
http://seirinji.main.jp

2020年11月26日木曜日

報恩講のご法話

 



 誓林寺の報恩講のご法話を、YouTubeで期間限定(12月31日まで)で公開いたします。

コロナの影響で、ご参拝をご遠慮された方。ご案内の通り半日のお参りをしてくださり、もう半日のご法話がお聴聞できなかった方。もう一度お聴聞したい方。何回でも見ていただけますので、この機会にぜひお聴聞いただきたいと思います。

 YouTubeの公開方法が限定公開にしてあるので、YouTube内で検索をかけても出てきません。下記の画面、あるいはリンクをクリックすればYouTubeの画面を開くことができますので、こちらをご利用ください。


午前の部

https://youtu.be/65YxjVJWeEE




午後の部

https://youtu.be/-i43Rg2gVx4






誓林寺
http://seirinji.main.jp

2020年11月21日土曜日

報恩講のご案内




 報恩講のご案内です。

明日11月22日()

10時~  (長沢町外の方)

13時半~ (長沢町内の方)

より誓林寺の報恩講をお勤めいたします。

お勤めは午前中がお正信偈(草譜)その後『御俗姓』

    午後はお正信偈(行譜)その後『御伝鈔』です。


ご講師は、福井県の髙務哲量(たかつかさ てつりょう)先生です。

コロナ感染拡大の影響により、参拝をお控えになる方のために、後日髙務先生の

ご法話を YouTube に期間限定でアップいたします。

YouTubeのURLはまたこの「誓林寺だより」にてご案内いたします。


できるかぎりの感染対策をしながらお勤めさせていただきます。

換気をしながらの法要になりますので、お越しの際は暖かくできる格好でお参りください。


誓林寺

豊川市長沢町下市3

0533‐87‐3305


2020年10月28日水曜日

2020年10月の掲示板




 境内の桜の葉はほぼ落ち切り、代わりにイチョウの木がしっかりと葉を蓄え黄葉の準備をしています。来月の報恩講の頃にはまっ黄色に染まりそうです。いよいよ秋が深まりつつある中、日暮れもどんどん早くなってきています。しかし、その分夜の静かな時間が増え、晴れていれば星がいつもに増して輝いているように見えます。秋の夜長、澄んだ空に瞬く星に心落ち着かせながら過ごして参りたいと思います。


 さて、今月の掲示板の言葉は、童話作家の工藤直子さんが『のはらうたⅢ』という本で紹介してくださった野原に棲むふくろうさんの詩を書かせてもらいました。太陽が沈み、暗いはずの夜空には、日中には全く見えなかった無数の星たちがまばゆく輝いていました。そんな景色を見たときに、ふくろうさんはとても大切なことに気が付いてくれました。それは、星が「ひかるためには くらやみもひつようだ」ということ。つまり、明るくては見えてこない世界もあるということでした。


 私たちの周りには、明るいと見えてこないものが他にもあるように思います。たとえば、ホタルの光や花火などもその1つとしてあげられそうです。このような、明るくなればなるほど逆に見えなくなるという現象は、実はモノだけではなく、心の問題についても言えそうです。たとえば、腹が立っているとき、「自分が正しい」という思いが大きく(明るく)なればなるほど相手の思いが見えなくなっていきます。あるいは、「金に目がくらむ」という言葉があるように、欲が暴走すると、大事なものがどんどん見えなくなってしまいます。いずれも、そこには「私の思い」が先行している姿があります。


 このように、怒りや欲、そして「私の思い」は大きく(明るく)なればなるほど大事なものを見えなくしてしまいます。それゆえ、仏教ではこの3つを大事なものを見えなくする3つの毒という意味で「三毒の煩悩」と呼びます。


 そして、「私の思い」が強いほど見えなくなる大事なものの1つに阿弥陀さまのみ教えがありました。阿弥陀さまのみ教えは、「あなたのいのち、お浄土に生まれ仏となるいのちに仕上げたから、どうか「南無阿弥陀仏」とお念仏を称(とな)えながら生きてきておくれ」という阿弥陀さまの仰せをそのまま聞き受け、お浄土に生まれ仏となるいのちとしてお念仏申しながら生きるというものです。ここに「なぜ?」とか「本当に?」という「私の思い」が差し挟まると、途端に阿弥陀さまのお心が見えなくなってしまいます。 


 けれども逆に、「私の思い」を少し横に置き(暗くして)、阿弥陀さまの仰せをそのまま聞かせていただくとき、夜空の星の光のように、阿弥陀さまのお心が私の心に届いてくださるのです。そして、この届いてくださる光は、不安や悲しみに沈み心暗くなったその時にこそ、私の心をあたたかく照らす光となって、私のいのちを支えてくださるのです。


   「 みあげれば よぞらのほしが 

     まつりのようにまぶしい

     ああ ひかるためには 

     くらやみもひつようだ  」

   

 「私の思い」が先行するあまり、真実に暗く大切なものを見失いがちな私。その私にこそ届いてくださる阿弥陀さまのみ教えという光に照らされながら、このいのちを大切に生かさせていただきたいと思います。

 

合掌


誓林寺
http://seirinji.main.jp

2020年9月30日水曜日

2020年9月の掲示板

 


 9月に入ったなと思っていたら、あっという間にお彼岸の時季を過ぎ、日が沈むのもすっかり早くなってきました。暑さも落ち着き過ごしやすくなって、いろんなことをしたくなってくる季節です。みなさんは、スポーツの秋、読書の秋、味覚の秋、どんな秋にされるでしょうか。これから秋が深まるにつれ寒暖差も大きくなってきますので、体調管理をしっかりとしながら秋を満喫していきたいと思います。

 さて、今月の掲示板の言葉は、江戸後期から明治にかけて活躍された浄土真宗の学僧である足利義山(1824‐1910)先生のおうたを書かせてもらいました。言葉自体は難しくはありませんが、省略されている言葉を補わないと何をあらわさんとしてくださっているのか分かりにくいところもあるかと思いますので、言葉を補いながらこのおうたを味わってみたいと思います。

 「ゆくさき」とは、私たちのいのちの行く先のことです。私のいのちがどこに向かっているのか、つまり、「なんのために生まれてきたのか」という私のいのちの意味と言い換えてもいいのかもしれません。しかし、私はと言えば、気が付いたときにはすでにこの世に生を享(う)け、生まれたままに日々を重ねてきました。つまり、わがいのちでありながら、どこから生まれてきてどこに向かって生きていくかも分からずに生きてきました。そんな私に向かって阿弥陀さまは、「南無阿弥陀仏」のお念仏の声となって「あなたのいのちはお浄土というさとりの世界に向かうべくして生まれてきたんだよ。」と告げてくださいます。

 このお念仏に出遇い、阿弥陀さまの仰せをそのまま受け止めることができるいのちへとお育ていただいたとき、私は「お浄土というさとりの世界に向かういのちを生きているんだ」と自覚をしながら人生を歩むことができます。そのことを足利先生は、「ゆくさきは たのむ初めにさだまりし」と詠んでくださいました。ちなみに、おうたに「たのむ初めに」という言葉が出てきますが、この「たのむ」というのは「お願いする」という意味ではなく、ここでは、「仰せの通りに受け止める」という意味です。つまり、私が阿弥陀さまに「お願いした」からお浄土へ生まれるいのちになったのではなく、阿弥陀さまが告げてくださる言葉に出遇い、その言葉を「受け止めた」ときに、「お浄土に生まれるいのちである」と知らされていくのです。

 私たちにとって一番辛いことは、自分が何のために生まれてきたのかも分からないままむなしくいのちを終えていくことでありました。そんな中で、阿弥陀さまに出遇い、いのちのゆくさきが定まるということは、私のいのちがただ無駄に終わっていくようないのちではなくなるということです。これは何にも代えがたいよろこびであり、そのよろこびを、感謝を阿弥陀さまに伝えていく言葉、それもまた「南無阿弥陀仏」のお念仏でありました。


  「 ゆくさきは たのむ初めにさだまりし

    そのうれしさを 口にとなえる   」


 「南無阿弥陀仏」のお念仏から阿弥陀さまの仰せを聞き、その仰せを聞いて「阿弥陀さま、ありがとうございます」とまた「南無阿弥陀仏」とお念仏を申す。そんな風に「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお念仏を申しながらこの人生を「お浄土へ向かういのち」として歩ませていただく。それが浄土真宗というみ教えが示してくださる仏道でありました。


称名


誓林寺
http://seirinji.main.jp