2020年2月29日土曜日

【重要】3月の法座案内



 新型コロナウイルスの感染症の被害が拡大している状況を受け、以下の法座・行事を
延期・中止とする対応を取らせていただきます。

   ・一日の会          3月  1日(日) 中止
   ・墓地清掃          3月14日(土) 中止
   ・お正信偈の会    3月15日(日) 中止
    ※3月の祥月命日の方のお勤めは次回(4月12日(日)予定)に
            併せてさせていただきますのでご了承ください。
   ・春季彼岸会       3月20日(金) 中止
   ・長沢仏教婦人会 3月31日(火) 延期

 ただし、個別の法事等は引き続き対応させていただきます。また、お彼岸のお勤めも
個人的に頼んでくださればお参りさせていただきますのでご相談ください。
 4月以降は状況を確認しながら追って連絡いたします。

誓林寺
0533-87-3305

2020年2月23日日曜日

2020年2月の掲示板



 2月とは思えないような暖かい日があるかと思えば、やはり今は冬だったんだなと知らされる寒い日もあり、身体がなかなかついていきません。しかし、外を見れば梅の花はもうピークを過ぎかけ、境内の草も次々生え始めています。季節は着実に春に向かって流れているようです。一方世間では、新型コロナウイルスが猛威をふるっています。事態が早く収束することを願いつつ体調には十分気を付けながら過ごして参りたいと思います。

 さて、今月の掲示板のお言葉は、明治から昭和にかけて活躍された精神科医であり歌人でもある斎藤茂吉(さいとう もきち)さん(1882‐1953)のおうたからいただきました。
 「あかつき」とは、『デジタル大辞泉』には「太陽の昇る前のほの暗いころ。」とありますので夜明け前のことを言います。なので、詩でも「まだくらきより」と言われているのでしょう。そして、「御名(みな)」とは「南無阿弥陀仏」のお名号のことです。

 この詩を読むと、目覚めとともにお念仏を称(とな)えながら、厳かで澄んだ朝を迎えようとしている作者の姿が思われます。また、斎藤茂吉さんが、御名を称える「息」が尊いと詠んでくださったことで、お念仏の声が自然と聞こえてくるような気がします。

 ではなぜ作者は、「出で入る息」が尊いと言われたのでしょうか?いろんな読み方ができると思いますが、私は、お念仏の息そのものが阿弥陀さまだからであると味わわせていただきました。
 親鸞聖人はご本典『教行証文類(きょうぎょうしょうもんるい)』の中で、中国の元照律師(がんじょうりっし)のお言葉を引いて次のように示されています。

 「いわんや我が弥陀は名をもって物を接したまう。
  ここをもって耳に聞き口に誦(じゅ)するに、
  無辺の聖徳(しょうとく)識心(しきしん)に
  攬入(らんにゅう)す。」

 つまり、阿弥陀さまは「南無阿弥陀仏」という御名(名号)となって私の心と体に入り満ちることで私を救ってくださる仏さまでありました。ですから、お念仏は私の体に入り満ちた阿弥陀さまが「南無阿弥陀仏」の声となって出てくださっている姿でありました。このお念仏によって私の耳に「南無阿弥陀仏」と聞こえてくださるからこそ、阿弥陀さまの「あなたを決して見捨てない阿弥陀という仏がここにいますよ。」のメッセージが私の心に響いてくださるのでした。

  「 あかつきの
    まだくらきより
    御名となふる
    出で入る息ぞ
    尊かりける 」

 まだまだ寒い朝。1日のはじめに白い息となりながら出てくださるお念仏に、阿弥陀さまのあたたかいお心を感じながら過ごして参りたいと思います。

称名

誓林寺

2020年1月31日金曜日

2020年1月の掲示板



 新年を迎えました。気が付けばもう令和も2年になりました。今冬は暖冬になり、おかげさまでいつもより過ごしやすい日々になっていますが、スキー場や雪まつりなど冬ならではの行事が雪不足で困っておられるそうですね。雪解け水も少なくなりそうですから、春夏の水不足も心配されます。何事もすべての人にとって都合の良いものはなかなかないのかもしれません。コロナウイルスも心配されます。くれぐれも体調には気を付けて参りたいと思います。

 さて、今月の掲示板の言葉は、『2020年 ほのぼのカレンダー』よりいただきました。更新の時期が大幅に遅れたので2月のお言葉から引用させていただきました。言葉の意味は説明しなくても分かるのではないのかなと思いますが、そのお心を少し味わわせていただきたいと思います。

 宗祖親鸞聖人は、お念仏を「本願招喚(ほんがんしょうかん)の勅命(ちょくめい)なり」とお示しくださいました。つまり、お念仏は私が称(とな)えるものだけれども、実は、お念仏を称えている姿はそのまま阿弥陀さまに呼ばれている姿なんだよということです。

 私はいつ親のことを「お父さん」「お母さん」と呼べるようになったかは分かりませんが、なぜ「お父さん」「お母さん」と呼べるようになったかはハッキリ分かります。それは、親が私に向かって「お父さん・お母さんだよ」と呼び続けてくれたからでした。
 親は呼んでほしい名で子どもに呼びかけることでその子に親であることを告げ、子どもは、その親の名告(の)りを聞いて初めて親を親として呼ぶことができるのでした。

 「南無阿弥陀仏」というお念仏も同じでした。「あなたのことを決して見捨てない、いのちの親がここに居るぞ」という阿弥陀さまの名告りのお呼び声が「南無阿弥陀仏」でした。このお念仏が私の口から出てくださるからこそ、私たちは、阿弥陀さまがいのちの親であることを知らせていただき、また、このいのちの親さまを「南無阿弥陀仏」と呼ばせてもらうことができるのです。そのことを実家の父は、

  「 南無阿弥陀仏で 親を知り
    南無阿弥陀仏の 親に遇(あ)い
    南無阿弥陀仏と 二人連れ 」

 と詠んでいました。いつどこにいても「決して独りにはさせない」と呼び続けてくださる阿弥陀さまとご一緒の人生をともに歩ませていただきたいと思います。

称名

誓林寺
http://seirinji.main.jp

2019年12月24日火曜日

2019年12月の掲示板



 2019年も残すところあとわずかとなりました。「令和」という元号もすっかり慣れ、気が付けばその令和も2年になろうとしています。あっという間に駆け抜けてしまった2019年。けれども、その中にも温かい有難いご縁をたくさんいただいた1年でした。お育ての中に生かされてあることに感謝しつつ、また新しい年を迎えられるよう準備をしてまいりたいと思います。

 さて、今年最後の掲示板の言葉は、金子みすゞさんの『海とかもめ』という題のお詩です。掲示できる紙の大きさの都合上、全文を書くことができませんでしたが、掲示板には私が一番ドキリとした言葉を載せさせていただきました。全文は以下のようになっています。

  「 海は青いとおもってた、
    かもめは白いとおもってた。
    だのに、今見る、この海も、
    かもめの翅(はね)も、ねずみ色。
    みな知ってると思ってた、
    だけどもそれはうそでした。
    空は青いと知ってます、
    雪は白いと知ってます。
    みんな見てます、知ってます、
    けれどもそれもうそかしら。 」

 金子みすゞさんの鋭い洞察力によって見抜かれた、私たちの「当たり前」のもろさが詩の中で巧みに言い表されています。今の時代を生きる私たちにとっては、実際に「見える(分かる)」ことがとても重要になっています。けれども、私に「見えて(分かって)」いるものが本当(まこと)かどうか、あるいは「見えて(分かって)」いるものがすべてかどうかはよくよく注意をしないといけないのかもしれません。

 日中に晴れていれば「空は青い」です。けれども、夕方になれば空は茜色になりますし、夜になれば黒くなります。「雪」も同じことが言えます。「空が青い」ということは「うそ」とまでは言い切れないですが、それがすべてかと言われるとそうではありません。

 仏教では、どんなに周りの状況が変わっても変わらない言葉、そして必ず言葉のようになることを「まこと」と呼びます。それで言えば、「空は青い」ということは「まこと」ではないということになります。そうやって考えていくと、私たちの身の回りで見聞きすることは「まこと」ではないものばかりだということに気が付かされます。そのことを親鸞聖人は、「よろづのこと、みなもってそらごとたはごと、まことあることなき」(『歎異抄』後序)と言われたのでした。

 では、仏教である浄土真宗の「まこと」とは何か?というと、親鸞聖人が「ただ念仏のみぞまことにておはします。」(同上)と言われたように、「南無阿弥陀仏」のお念仏こそがどんなに周りの状況が変わっても変わらない「まこと」でありました。
 何が変わらないのか?と言えば、阿弥陀さまの仰せが変わらないのです。その仰せとは、「あなたのいのち、必ずお浄土に生まれさせ仏にならせてみせる。」というものです。この仰せは「まこと」ですから、必ずこの通りにならせていただくのです。

 そんな仰せが絶えず変わらず私のもとに「南無阿弥陀仏」という言葉となって届いてくださっているから、私たちは「まこと」に貫かれた、変わらない(うそではない)人生を歩ませていただくことができるのです。

 年が変わっても、時代が変わっても、そしてこの私が変わってしまっても決して変わらない「まこと」のお念仏、「南無阿弥陀仏」を大切に称(とな)えながら、過ごしてまいりたいと思います。

称名

誓林寺
http://seirinji.main.jp

2019年11月28日木曜日

2019年11月の掲示板


 今年は例年よりも暖かいせいか季節の進みもゆっくりのようで、誓林寺の境内のイチョウの木もようやく色づき始めました。しかしそうは言っても、季節は着実に移ろいでいるようで、日暮れは日に日に早くなっていっています。心まで暗く寒くならぬよう、あたたかい阿弥陀さまのお心を日々お聞かせいただきたいなと思います。

 さて、今月の誓林寺掲示板のお言葉は、相田みつを さんのおうたです。「ものさし」というのは価値基準ということですが、ここで言われている「そん(損)」「とく(得)」というのは単純なお金の話ではありません。ここで言う「損」は「私の心が満たされないこと」。逆に「得」は「私の心が満たされること」と言うことができるのではないかと思います。
 私たちが生活を円滑に営むには、お互いに「心が満たされていく」ことが大切です。それゆえ、私たちはお互い上手に付き合っていく術として、相手の心を満たすために「本音」と「建前」を使い分けながら生きています。これも先人方が築いてこられた立派な生活の知恵です。
 
 けれども一方で、この「生活の知恵」が使えない場面があります。それが私の命に関わる場面です。今年の報恩講で田坂先生が、「うそ(本音と建前)」の言葉は、「命(生老病死)」を前にしたときは末通らないというお話をしてくださりました。
 今にも息を引き取りそうな人に対して、あるいは、今まさに病や老いの苦しみを抱えている人に対して届く言葉、私の「命(生老病死)」に末通っていく言葉、それが「まこと」の言葉です。けれども、その「まこと」の言葉を持ち合わせていないのが私でした。

 阿弥陀さまの価値基準(ものさし)は、「命(生老病死)」を生きている私に届く言葉(まこと)か届かない言葉(うそ)かでした。そして、「まこと」を届けてくださるのが阿弥陀さまでした。その「まこと」の言葉が、「南無阿弥陀仏(私はあなたを決して見捨てない。あなたを必ずお浄土に生まれさせ、仏にしてみせる。)」というお言葉でした。

 この「まこと」の言葉が私の「命(生老病死)」に末通ってくださっているからこそ、いつでもどこでもどんな場面でも「南無阿弥陀仏」とお念仏が出てくださるのです。どんな場面でも「南無阿弥陀仏」が出てくださるから、どの瞬間を切り取っても、私の「命(生老病死)」が本当の意味で満たされていくのです。

  「 そんか とくか
    人間のものさし
    うそか まことか
    仏さまのものさし 」

 「まこと」の言葉に出遇わせていただく中で、本当に「心満たされた」人生をお互いさまに生かさせていただきたいと思います。

合掌

誓林寺

2019年10月22日火曜日

2019年10月の掲示板

 
 台風19号による未曽有の大雨により日本各地で甚大な被害が出ています。被災された方々に心からお見舞い申し上げます。そして、一日でも早く日常が取り戻されることを願います。悲しいニュースの一方で、日本ラグビーがワールドカップで快進撃を見せ国中を盛り立ててくれました。私を含め多くの方がラグビーの試合に感動されたことだと思います。
 お恥ずかしいことですが、良くも悪くも目立たないとなかなか気が付けない私の姿がここにあります。せめて、大事なことを見失いがちな私に大事なことを伝えてくださる声に耳を傾けられる人でありたいと思います。

 さて、今月の掲示板の言葉は、島根県石見の妙好人 浅原才市さん(1850~1932)のおうたです。才市さんの作られたおうたは前にも何度か紹介させていただきましたが、天性の才能なのでしょう。どのおうたもとても語呂がよくて耳に心地よく、言葉が胸にすっと入ってきます。今月紹介のおうたもそのひとつです。
 仏さまのこころだけではなく私たちのこころも目には見えません。だからこそ私たちは「言葉」を通して話をし、こころを伝えていくのですが、この「言葉」がとてもやっかいです。確かに私たちは「言葉」によって相手のこころを知っていくことができますが、私たちが使う「言葉」は残念ながらこころをすべて表すことができませんし、時にはこころと「言葉」がチグハグのことだってあります。けれども、私たちはこころを直接見られませんから、「言葉」に頼らざるを得ないのでどうしてもこころの行き違いが起こってしまいます。「言葉」がないとこころが分からないのに、その「言葉」で余計にこころが分からなくなっているのが私たちでした。
 
 そんな中で、こころはおろか姿さえ見ることができない阿弥陀さまと、「言葉」とこころが異ならない、まことの会話をすることができることを「不思議なものよ」と喜んでいかれたのがこのおうたでした。その会話の「言葉」は「称名念仏」、つまり「南無阿弥陀仏」です。この「南無阿弥陀仏」という「言葉」は、阿弥陀さまの「あなたを決して見捨てずどんなときも支えていますよ。」というおこころを(この言葉ですらすべて言い表せていませんが)そっくりそのまま余すことなく表してくだっている「言葉」です。このお念仏の会話を通して阿弥陀さまのこころのぬくもりに触れていくのです。
 会話は相手のこころを聞いていくためのもの。そうであるならば、「南無阿弥陀仏」のお念仏は、誰かが亡くなったときにだけ称えるものでも誰かのために称えるものでもなく、今私が阿弥陀さまのおこころを聞かせていただくものでありました。そして、普段の会話の場面は日常の中に散りばめられているように、お念仏を称え阿弥陀さまとお話をする場面もお仏壇の前だけじゃありません。日常のいたるところに散りばめられています。そのために阿弥陀さまはいつでもどこでも「南無阿弥陀仏」と出てくださる仏さまになってくださったのでありました。
 「 仏のこころは 不思議なものよ
   めにはみえねど 話ができる
   仏と話をするときは
   称名念仏 これがはなしよ  」
 日々の様々な場面で、お念仏という阿弥陀さまの温かいおこころを聞かせていただく会話を大切にしながら生きていきたいなと思います。
称名

誓林寺
http://seirinji.main.jp

2019年9月26日木曜日

2019年9月の掲示板


 
 息子がまだ連れ合いさんのお腹の中にいた頃に植えられた田んぼの稲はすっかり収穫の時期を迎え、長沢の田んぼには落ち穂を拾いにいろんな動物が訪れています。
   日もすっかり短くなり、誓林寺も本格的な秋を迎えています。各地で台風の被害が出ており、被災者の皆さんの生活が心配されますが、私たち1人ひとりにとってこの秋が御法(みのり)の秋になりますよう念じています。

    さて、今月の掲示板のお言葉は、三重県のお寺のご門徒さんが作られたおうたを載せさせてもらいました。
    私事ですが、今月滋賀にいる実母が60回目の誕生日を迎え、還暦になりました。7月には孫が生まれ名実ともに「おばあちゃん」になりました。平均寿命が男女ともに80歳を超える今、60歳はまだまだ「若い」と言われる歳ですが、これからも元気に喜寿・米寿・白寿・百寿と生きていてほしいなと願います。

    しかしながら、願いとは裏腹に「老いも若きもこの世に生を享けたからにはいつどこでどんな風にいのち終えていくかわからない」ということを教えてくださるのが仏教でした。けれども、浄土真宗のみ教えを聞かせていただく私たちは、ただむなしくいのちを終えていくのではありません。『仏説阿弥陀経』にはこのようなご文が出てきます。

    「かの仏の寿命およびその人民(にんみん)も無量無辺阿僧祇劫(むりょうむへんあそうぎこう)なり。ゆえに阿弥陀と名づく。」

    「無量無辺阿僧祇劫」というのは、はかり知ることのできないほど長い時間のこと、つまり無限ということを表しています。阿弥陀さまのお名前の由来を尋ねると、この仏さまは無限のいのちをもった仏さまでありました。そのお経のおこころを詠んでくださったのがこのおうたですが、お経さまの言葉には、「かの仏の寿命およびその人民も」と言われています。つまり、阿弥陀さまだけではなく、お浄土に生まれていった人たちも無限のいのちをもった仏さまにならせていただくんだということです。

    そのことを踏まえておうたを読ませてもらうと、「我」とは、いのち尽きお浄土に生まれ仏さまにならせていただく「この私」のことだと受け取れます。

    人のいのちとして何歳と言っている私ですが、このいのち何歳で終わっていこうとも、阿弥陀さまに出遇わせていただいたこの人生は、必ず無量寿の仏さまにならせていただく、むなしく終わらない人生でありました。

    「  喜寿・米寿
          白寿・百寿も
          なんのその
          我は無量寿
          ナモアミダブツ  」

    遠く日の沈む西の彼方にあると説かれる私たちのいのちが仏として帰っていくところ、極楽浄土に思いを馳せながら、1日1日と過ごさせていただきたいと思います。

合掌

誓林寺
http://seirinji.main.jp