3月になり季節がやっと気温に追いついたような気がします。しかし、この冬が暖冬だったからといって例年よりも日没が遅いわけでもなくいつも通りでしたが、最近ではすっかり日も長くなって、いつの間にか春分を迎えています。桜も咲き始めいよいよ春満開ですが、新型コロナウイルスの影響で、いつもより少し静かな春になりそうです。とはいえ、「春」がなくなるわけではありませんので、それぞれに「春」の芽吹きの力を感じながら、この状況をご一緒に乗り越えていきたいと思います。
さて、今月の掲示板のお言葉は、春分を迎える月ということで、お彼岸にちなんだお浄土を偲ぶおうたを紹介させていただきました。このおうたは、本山の御正忌報恩講(親鸞聖人のご命日法要 1月9日~16日)に際して毎年ご門徒のみなさまから募集される「御法楽献詠(ごほうらくけんえい)」に入選したおうたのひとつです。「法楽」とは、おみ法(のり)に出遇えたよろこびのことで、そのよろこびを親鸞聖人のご廟所(びょうしょ(お墓))に献供(けんぐ)するために詠まれたうただから「献詠」といいます。
「あかね雲」とは、朝日や夕日に照らされて赤く染まった雲のことですが、ここでは「夕日」に照らされた雲を指します。日が傾き雲が茜色に輝き出すと、鳥たちは巣へと帰っていきます。実は、この鳥が巣に帰る様子が「西」という漢字のもとになったそうですが、では私たちの「いのち」はどこに帰っていくのでしょうか?
『仏説阿弥陀経』にはこのようなご文が出てきます。
「これより西方に、十万憶の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。
その土に仏まします。阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ。」
お釈迦さまはお経を説く中で、阿弥陀さまのお浄土は日が沈みゆく「西」の方向にあるのだとお示しくださいました。さきに触れましたように、「西」という漢字には「帰っていくところ」というニュアンスが含まれていることを踏まえますと、「西」にあるお浄土とは、私たちの「いのち」が帰っていくところ、と受け止めさせていただくことができます。
では、私たちにとって「帰る」ことができる場所とはどのようなところなのでしょうか?いろんな言い方があるかもしれませんが、その特徴のひとつとして「飾らずにいられる場所」と言えるかもしれません。「帰る」場所以外は、ある程度身や心を整えて行かなければなりませんが、「帰る」ところはどれだけ汚れていようが構いません。いや、むしろ「帰る」ところには汚れたりボロボロになって行くことの方が多いかもしれません。けれども、汚れたりボロボロになったままでも「帰る」ことができるのは、そのままの私を迎えてくれる存在があるからでした。
私たちがお浄土という世界をいただくということは、そして阿弥陀さまという仏さまに出遇わせていただくということは、飾らずとも私のままを受け止めていただける世界をいただくということでありました。その世界は、お浄土に往(い)って初めていただく世界ではありません。私のことをそのまま受け止めてくださる阿弥陀さまが、「南無阿弥陀仏」というお念仏となって私の口に出てくださる「今」「ここ」にその世界をいただいていくのでした。
なればこそ、日常の悲しみやつまずきもお念仏いただく「今」「ここ」で阿弥陀さまに受け止めていただくのです。そしてまた、そのお念仏いただく人生が、たとえツラいことや悲しいこと、後悔がたくさんあった人生だったとしても、その人生まるごとが受け止められていくからこそ、私たちはお浄土に飾らず「帰って」いくことができるのでした。
日に日にぬくもりを増す夕日の先にお浄土を偲びながら過ごして参りたいと思います。
合掌
誓林寺
http://seirinji.main.jp
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