2020年4月22日水曜日

2020年4月の掲示板




 境内の桜の花も散り、今やすっかり葉桜になりました。周りを見渡すと、木々の新芽がまぶしく、早くも初夏の様相を呈してきました。自然はますます鮮やかに色濃く華やいでいく一方で、新型コロナウイルスの収束はいよいよ見通しがきかなくなってきました。先が見えない不安は日に日に大きくなっていきますが、焦らず、今の状況で自分にできることをできるだけ勤めさせていただきたいと思います。

 さて、今月の掲示板の言葉は、シンガーソングライターの秦基博さんの『花』という曲の歌詞からいただきました。小さなものから大きなものまで、多種多様な花が次々に咲いては散っていくこの季節にこの歌詞を口ずさむと、なんとも言えない思いが胸に押し寄せてきます。この歌詞は、舗道に咲く小さな花の目線で語られたものですが、その花に自分自身も重ねていくことができます。「私はなんのためにこの世に生まれてきたのか?」これは、「意味」を求めずには生きられない私たちにとって一番大きな問題です。

 この歌では、「君に逢うために生まれてきたんだ」と、「であい」の中に私のいのちが恵まれた「意味」を見つけていきます。考えてみますと、私たちの人生というのは「であい」によってできていると言っても過言ではないのかもしれません。いろんな人との「であい」もあれば、もう二度とこんなことには「であい」たくないというツラく悲しい出来事との「であい」、逆に、嬉しさに飛び上がってしまいそうになる「であい」までさまざまです。そんなたくさんの「であい」の中で、「私はこれに「であう」ために生まれてきんだ」と言い切っていくことのできることが何よりの「幸せ」なのかもしれません。

 人によって、それが、家族であり、友達であり、恋人であり、先生であり、人生を決める大きな出来事であったりといろいろあると思いますし、一つに限らなくてもいいのだと思います。そんな「であい」があればあるほど、私がこの世に生まれてきた「意味」が深まっていくのでしょう。

 そんな私の人生を彩る多くの「であい」の中で、もっとも尊い「であい」があるんだと宗祖親鸞聖人さまはお示しくださいました。その「であい」こそ、阿弥陀さまとの「であい」でありました。阿弥陀さまと「であう」ということは、お念仏申しながら過ごすということです。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお念仏を称えながら生きるこの人生は、つまり、阿弥陀さまの智慧の光に照らされながら生きるこの人生は、どの瞬間を切り取っても、そこに「大切な意味」を見出していくことのできる人生でした。

 私たちの根源的な苦しみとなる「生老病死」という4つの現実も、阿弥陀さまに「であう」とき、「老い」て年を重ねる時間は、お育てを賜る時間へ。「病い」は、いのちと向き合うご縁に。そして、「死」して散りゆくことさえも、仏さまにならせていただくご縁として「意味付け」られていくのでありました。

  「 何のために 咲いてるのか
    何のために 色づくのか
    何のために 散りゆくのか
    君に逢うために 生まれたんだ 」

 お念仏を称える中に阿弥陀さまからいろんなお育てを賜り、ツラいことや悲しいことにも「大切な意味」が与えられていくとき、「私は、阿弥陀さまに出遇うために生まれてきたんだ」と言い切っていくことのできる世界が開かれていくのでしょう。そして、そんな世界が開かれていくことがなにより「幸せ」なことでありました。
 いいことばかりではありませんが、一つひとつの「であい」を大切にしながら過ごして参りたいと思います。

合掌

誓林寺
http://seirinji.main.jp

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