梅雨が明けると一気に夏になりました。午前9時頃にはもうすでに外ではじっとしていられない暑さになり、空気も揺らめいて見えます。境内では、そこかしこでその暑さをそのまま音にしたかのようなセミたちの「ミンミン…ジリジリ…」という声が鳴り響いています。セミたちの ” いのちの音 ” を聞きながら、今月も過ごして参りたいと思います。
さて今月の掲示板の言葉は、以前にも掲示板で紹介したことのある大阪の仏教詩人、榎本 栄一さん(1903-1998)の『あるく』という題の詩です。自分のいのちを支えてくださる存在があることの有難さを素直に詠んでくださったそんな詩です。榎本さんはこの詩で、「支えられる」という表現のかわりに、「見ていてくれる」「照らしてくれる」という言葉を使っておられます。そんなことに注目をしながら、少しおみ法を味わってみたいと思います。
まず、「見ていてくれる」ということがどうして支えになるのか?ということですが、この誰かの視線の中にいることの安心感というのは、息子の姿を見ているとよく分かります。息子も今月で2歳になり、ずいぶんと1人で遊べることが増えてきました。部屋で一緒にいると、私のことは忘れているんじゃないかというくらいとても集中しておもちゃで遊ぶので、ちょっとだけ離れようとすると息子は慌てて手を止めて私を追いかけてきます。
そんな息子の姿を見たときに、何をするわけでもないけれども、” ただそこに一緒にいて自分を見ていてくれる ” ということが息子にとってどれだけ大事なことなのかということを知らされます。息子にとって、何か出来たとき(嬉しいとき)や何か困ったとき(悲しいとき)にすぐに言えるところに親がいるということが何よりも安心できることなのでしょう。そして、そんな安心があるからこそ、1人黙々と遊びに集中することができるのでしょう。
そのように「見ていてくれる」と言ったとき、そこには誰かが一緒に居てくれるということが秘められています。しかも、ただ一緒にいるだけではなく、その人が ” 私 ” に注目していてくれるからこそ、嬉しい気持ちも悲しい気持ちも見て「知ってくれている」、そんなことがこの「見ていてくれる」という言葉の中には含まれています。自分の気持ちを分かってもらえることほど嬉しいことはありませんし、安心できることはありません。だからこそ、「見ていてくれる」ことが私の支えになるのでしょう。そして、「見ていてくれる」ということそのこと自体が、私を「照らしてくれている」ということなのかもしれません。
そしてまさに、片時も離れずに私のことを「見ていてくださる」「照らしてくださる」のが阿弥陀さまでした。「南無阿弥陀仏」のお念仏が、いつどこでどんな風に称えても出てきてくださるのは、阿弥陀さまが私から一瞬たりとも離れず目を離さずにいてくださるからでありました。だからこそ、私たちはお念仏を称える度に、「あぁ、阿弥陀さまは私のことをちゃんと見ていてくださるなぁ」と感じていくことができるのです。
「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えながら日暮らしさせていただくとき、私たちは「阿弥陀さまに絶えず見つめられている人」であることを知らされていきます。どんなときも見られているということは、私の恥ずかしい姿も知られているということですから、一方では背筋が伸びることでもありますが、しかし、絶えず見られているということを知ることは、私の人生の上に ” 独り ” という瞬間が全くなくなっていくということでもありました。つまり、「絶えず見つめられる」ということは、「分かってもらえない」という ” 孤独 ” から救われていくことでした。そして、「分かってもらえる」からこそ、なんとか「くじけずに」やっていけるのかもしれません。
「 私を見ていて下さる人があり
私を照らして下さる人があるので
私はくじけずに 今日を歩く 」
くじけそうなことばかりの毎日ですが、お念仏にこのいのち照らされながら、一日いちにちを丁寧に歩ませていただこうと思います。
称名
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