お盆を過ぎたあたりから、境内のセミの鳴き声もアブラゼミからツクツクボウシに少しずつ移行し、夕方になれば涼しくなった風に乗ってヒグラシの哀愁を誘う声が山から聞こえてきます。忙しい毎日に追われているうちに、いつの間にか夏もピークを過ぎ、ゆるやかに秋に向かおうとしています。暑ければ暑いでグチがこぼれますが、過ぎ去ってしまうと思うと少し寂しくもあります。残暑にひそむ夏をあと少し味わいながら過ごして参りたいと思います。
さて、今月の掲示板の言葉は、以前にも紹介した詩人の岩崎 航さん(1976~)の同じく『点滴ポール 生き抜くという旗印』という本の中にある詩の1編を書かせてもらいました。ベッドの上で、いのちと向き合ってこられた岩崎さんの「目標」とも読めるような詩です。「自分の心弱さ」ではなく「人間の心弱さ」と言われているところに、この詩の深さを感じます。今月もこの詩を通しておみ法(のり)を味わってみたいと思います。
人は、他人の弱さに気付くのは意外と上手です。それは、無意識のうちに「少しでも他人より優位に立ちたい」という思いがあるからなのかもしれません。けれども、その弱さを「見つめ抜く」ということはなかなかできることではありません。なぜなら、他人の弱さを「見つめ抜く」ということは、その人の弱さの背景も知っていくことになりますから、究極的に言えば、相手のすべてを知ることを意味するからです。そして、相手のすべてを知るためには、それだけの智慧と相手の弱さを知ってもなお受け止めるだけの心の深さがなければかないません。
究極的な話でなくても、少なくとも相手のことをある程度受け止めることができなければ、相手の弱さをちゃんと「見つめる」ことはできません。そしてそれは、自分自身の弱さに対しても同じことが言えるのかもしれません。ある程度までは自分の弱さも受け止めることはできますが、なかなか受け止めることができないから「弱さ」とも言うのでしょう。だから、私は自分の弱さを「見つめる」ことがなかなかできませんし、まして「見つめ抜く」ことはとても困難です。
そんな中にあって、究極的に私のいのちの弱さを「見つめ抜いて」くださった方がいらっしゃいました。それが阿弥陀さまでありました。阿弥陀さまは、私のいのちを長い時間をかけてまことの智慧でもって見つめ抜き、私の知らない私まで、すべてしっかりと知っていてくださる仏さまです。それはつまり、阿弥陀さまは、ときに自分でも持て余すこの私自身のすべてを受け止めてくださっているということでもありました。
阿弥陀さまは、どんな私であってももうすでに受け止めてくださっているからこそ、何があっても決して動じないという「強さ」がありますし、その「強さ」ほど私にとって心強いものはありません。そしてまた、私の「弱さ」を知っているからこそ、私の危うさを何よりも分かっていてくださるのも阿弥陀さまでありました。だからこそ、「私」を絶対的な価値基準にすることに対しては一切の妥協を許さず否定されるという「厳しさ」もあります。
その「厳しさ」も、本当の意味で私を支えるための「優しさ」であり、私のすべてを受け止めることができる「強さ」がそのまま私を包む「優しさ」でもありました。そして、この「強さ」「厳しさ」「優しさ」の根底に流れているのは、大前提としてすべてのいのちを「大事ないのち」と見つめてくださる心の「豊かさ」でありました。私たちはこの豊かな眼差しの中にいて初めて、弱さを含めた自分とも向き合うことができるのでしょう。
「 人間の心弱さを
見つめ抜いた
その上での
強さ 厳しさ
豊かさ 優しさ 」
私のすべてを知り抜いた上で、このいのちを引き受け支えてくださっている阿弥陀さまの眼差しに大きな安心を感じながら、私なりに一生懸命この人生を歩ませていただきたいと思います。
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