9月に入り、お彼岸に近づくにつれ、空には秋らしいうろこ雲がたなびくようになってきました。そして、今年もちゃんとお彼岸の時期になると彼岸花が咲き出し、そこかしこをキレイに飾ってくれました。彼岸花を見るたびに時季を違(たが)えないすごさを感じます。これからは日が短くなる一方ですが、反対に長くなっていく夜の落ち着いた時間も大事にしながら過ごして参りたいと思います。
さて、今月の掲示板の言葉は、仏教詩人である坂村真民(さかむら しんみん)さん(1909-2006)の『安らぎ』という題の詩です。「あんな」とおっしゃっているところに、実際に「帰ってゆく処(ところ)がわかっている」人を前にして詠まれた実感のこもったおうたであったんだなぁということが伝わってきます。
その「帰ってゆく処」とは、もちろん「自分の住まい」ということも言えるかもしれませんが、坂村さんが仏教詩人であることを踏まえると、ただ住まいのことを指しておられるわけではなさそうです。では、坂村さんのおっしゃる「帰ってゆく処」とはなんなのでしょうか。それはきっと、「いのちの帰ってゆく処」、つまり、私のいのちに「本当の居場所」を与えてくれる拠(よ)り所のことなのでしょう。
「居場所」とは、自分のことを受け入れてくれる場のことを言いますが、ある程度は自分で作っていくこともできます。たとえば、お金を払ってチケットを買えば球場や映画館などで「私の席」という「居場所」がもらえます。あるいは、頑張って就職活動をして会社に雇ってもらえば、私が働くことができる「居場所」がもらえる、ということも言えるのかもしれません。けれども、どちらとも無条件で「居場所」がもらえるわけではありません。お金を払わなければ球場にも映画館にも入ることすらできませんし、会社もどんな人も雇ってくれるわけではありません。
けれども「本当の居場所」とは、地位や名誉や財産など私が積み上げてきたものすべてを取っ払って、丸裸になってもなお私のことを受け止めてくれる存在がいる場所でした。つまりそれは、自分の努力で勝ち取っていく「居場所」に反して、私の努力や能力に関係なくただただ無条件に与えられていく「居場所」でありました。無条件に与えられるからこそ、「居場所」を失うことにおびえずにゆったりと安心してこの身をゆだねていくことができるのでした。
そして、浄土真宗というみ教えを聞くものにとっては、無条件でどんな私も受け止めてくださるのが阿弥陀さまであり、その阿弥陀さまが「本当の居場所」として与えてくださるのが「お浄土」という世界でありました。自分を偽(いつわ)らず、また、背伸びをせずともありのままの私を受け止めてくださる「お浄土」という「いのちの帰ってゆく処」を知らされていくとき、評価や比較の世界から解き放たれていきます。だからこそ、大きな安らぎの中で自然とやわらかな「いい」表情へと変えられていくのでしょう。
「 帰ってゆく処が
わかっているから
あんないい顔になるのだ
あんないい目になるのだ
あんな安らぎの姿になるのだ 」
評価や比較の社会の中で生きていかなければならない現代だからこそ、お互いさまに「お浄土」という評価や比較ではない私の「本当の居場所」をしっかりと心にいただきながら過ごして参りたいと思います。
合掌
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