2021年9月30日木曜日

2021年9月の掲示板

 


 9月に入り、お彼岸に近づくにつれ、空には秋らしいうろこ雲がたなびくようになってきました。そして、今年もちゃんとお彼岸の時期になると彼岸花が咲き出し、そこかしこをキレイに飾ってくれました。彼岸花を見るたびに時季を違(たが)えないすごさを感じます。これからは日が短くなる一方ですが、反対に長くなっていく夜の落ち着いた時間も大事にしながら過ごして参りたいと思います。


 さて、今月の掲示板の言葉は、仏教詩人である坂村真民(さかむら しんみん)さん(1909-2006)の『安らぎ』という題の詩です。「あんな」とおっしゃっているところに、実際に「帰ってゆく処(ところ)がわかっている」人を前にして詠まれた実感のこもったおうたであったんだなぁということが伝わってきます。

 その「帰ってゆく処」とは、もちろん「自分の住まい」ということも言えるかもしれませんが、坂村さんが仏教詩人であることを踏まえると、ただ住まいのことを指しておられるわけではなさそうです。では、坂村さんのおっしゃる「帰ってゆく処」とはなんなのでしょうか。それはきっと、「いのちの帰ってゆく処」、つまり、私のいのちに「本当の居場所」を与えてくれる拠(よ)り所のことなのでしょう。


 「居場所」とは、自分のことを受け入れてくれる場のことを言いますが、ある程度は自分で作っていくこともできます。たとえば、お金を払ってチケットを買えば球場や映画館などで「私の席」という「居場所」がもらえます。あるいは、頑張って就職活動をして会社に雇ってもらえば、私が働くことができる「居場所」がもらえる、ということも言えるのかもしれません。けれども、どちらとも無条件で「居場所」がもらえるわけではありません。お金を払わなければ球場にも映画館にも入ることすらできませんし、会社もどんな人も雇ってくれるわけではありません。


 けれども「本当の居場所」とは、地位や名誉や財産など私が積み上げてきたものすべてを取っ払って、丸裸になってもなお私のことを受け止めてくれる存在がいる場所でした。つまりそれは、自分の努力で勝ち取っていく「居場所」に反して、私の努力や能力に関係なくただただ無条件に与えられていく「居場所」でありました。無条件に与えられるからこそ、「居場所」を失うことにおびえずにゆったりと安心してこの身をゆだねていくことができるのでした。


 そして、浄土真宗というみ教えを聞くものにとっては、無条件でどんな私も受け止めてくださるのが阿弥陀さまであり、その阿弥陀さまが「本当の居場所」として与えてくださるのが「お浄土」という世界でありました。自分を偽(いつわ)らず、また、背伸びをせずともありのままの私を受け止めてくださる「お浄土」という「いのちの帰ってゆく処」を知らされていくとき、評価や比較の世界から解き放たれていきます。だからこそ、大きな安らぎの中で自然とやわらかな「いい」表情へと変えられていくのでしょう。


  「 帰ってゆく処が

    わかっているから

    あんないい顔になるのだ

    あんないい目になるのだ

    あんな安らぎの姿になるのだ 」


 評価や比較の社会の中で生きていかなければならない現代だからこそ、お互いさまに「お浄土」という評価や比較ではない私の「本当の居場所」をしっかりと心にいただきながら過ごして参りたいと思います。


合掌


誓林寺
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2021年8月31日火曜日

2021年8月の掲示板



 お盆を過ぎたあたりから、境内のセミの鳴き声もアブラゼミからツクツクボウシに少しずつ移行し、夕方になれば涼しくなった風に乗ってヒグラシの哀愁を誘う声が山から聞こえてきます。忙しい毎日に追われているうちに、いつの間にか夏もピークを過ぎ、ゆるやかに秋に向かおうとしています。暑ければ暑いでグチがこぼれますが、過ぎ去ってしまうと思うと少し寂しくもあります。残暑にひそむ夏をあと少し味わいながら過ごして参りたいと思います。


 さて、今月の掲示板の言葉は、以前にも紹介した詩人の岩崎 航さん(1976~)の同じく『点滴ポール 生き抜くという旗印という本の中にある詩の1編を書かせてもらいました。ベッドの上で、いのちと向き合ってこられた岩崎さんの「目標」とも読めるような詩です。「自分の心弱さ」ではなく「人間の心弱さ」と言われているところに、この詩の深さを感じます。今月もこの詩を通しておみ法(のり)を味わってみたいと思います。


 人は、他人の弱さに気付くのは意外と上手です。それは、無意識のうちに「少しでも他人より優位に立ちたい」という思いがあるからなのかもしれません。けれども、その弱さを「見つめ抜く」ということはなかなかできることではありません。なぜなら、他人の弱さを「見つめ抜く」ということは、その人の弱さの背景も知っていくことになりますから、究極的に言えば、相手のすべてを知ることを意味するからです。そして、相手のすべてを知るためには、それだけの智慧と相手の弱さを知ってもなお受け止めるだけの心の深さがなければかないません。


 究極的な話でなくても、少なくとも相手のことをある程度受け止めることができなければ、相手の弱さをちゃんと「見つめる」ことはできません。そしてそれは、自分自身の弱さに対しても同じことが言えるのかもしれません。ある程度までは自分の弱さも受け止めることはできますが、なかなか受け止めることができないから「弱さ」とも言うのでしょう。だから、私は自分の弱さを「見つめる」ことがなかなかできませんし、まして「見つめ抜く」ことはとても困難です。


 そんな中にあって、究極的に私のいのちの弱さを「見つめ抜いて」くださった方がいらっしゃいました。それが阿弥陀さまでありました。阿弥陀さまは、私のいのちを長い時間をかけてまことの智慧でもって見つめ抜き、私の知らない私まで、すべてしっかりと知っていてくださる仏さまです。それはつまり、阿弥陀さまは、ときに自分でも持て余すこの私自身のすべてを受け止めてくださっているということでもありました。


 阿弥陀さまは、どんな私であってももうすでに受け止めてくださっているからこそ、何があっても決して動じないという「強さ」がありますし、その「強さ」ほど私にとって心強いものはありません。そしてまた、私の「弱さ」を知っているからこそ、私の危うさを何よりも分かっていてくださるのも阿弥陀さまでありました。だからこそ、「私」を絶対的な価値基準にすることに対しては一切の妥協を許さず否定されるという「厳しさ」もあります。


 その「厳しさ」も、本当の意味で私を支えるための「優しさ」であり、私のすべてを受け止めることができる「強さ」がそのまま私を包む「優しさ」でもありました。そして、この「強さ」「厳しさ」「優しさ」の根底に流れているのは、大前提としてすべてのいのちを「大事ないのち」と見つめてくださる心の「豊かさ」でありました。私たちはこの豊かな眼差しの中にいて初めて、弱さを含めた自分とも向き合うことができるのでしょう。


 「 人間の心弱さを

   見つめ抜いた

   その上での

   強さ 厳しさ

   豊かさ 優しさ 」


 私のすべてを知り抜いた上で、このいのちを引き受け支えてくださっている阿弥陀さまの眼差しに大きな安心を感じながら、私なりに一生懸命この人生を歩ませていただきたいと思います。


合掌


誓林寺
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2021年7月30日金曜日

2021年7月の掲示板



 梅雨が明けると一気に夏になりました。午前9時頃にはもうすでに外ではじっとしていられない暑さになり、空気も揺らめいて見えます。境内では、そこかしこでその暑さをそのまま音にしたかのようなセミたちの「ミンミン…ジリジリ…」という声が鳴り響いています。セミたちの ” いのちの音 ” を聞きながら、今月も過ごして参りたいと思います。


 さて今月の掲示板の言葉は、以前にも掲示板で紹介したことのある大阪の仏教詩人、榎本 栄一さん(1903-1998)の『あるく』という題の詩です。自分のいのちを支えてくださる存在があることの有難さを素直に詠んでくださったそんな詩です。榎本さんはこの詩で、「支えられる」という表現のかわりに、「見ていてくれる」「照らしてくれる」という言葉を使っておられます。そんなことに注目をしながら、少しおみ法を味わってみたいと思います。


 まず、「見ていてくれる」ということがどうして支えになるのか?ということですが、この誰かの視線の中にいることの安心感というのは、息子の姿を見ているとよく分かります。息子も今月で2歳になり、ずいぶんと1人で遊べることが増えてきました。部屋で一緒にいると、私のことは忘れているんじゃないかというくらいとても集中しておもちゃで遊ぶので、ちょっとだけ離れようとすると息子は慌てて手を止めて私を追いかけてきます。

 そんな息子の姿を見たときに、何をするわけでもないけれども、” ただそこに一緒にいて自分を見ていてくれる ” ということが息子にとってどれだけ大事なことなのかということを知らされます。息子にとって、何か出来たとき(嬉しいとき)や何か困ったとき(悲しいとき)にすぐに言えるところに親がいるということが何よりも安心できることなのでしょう。そして、そんな安心があるからこそ、1人黙々と遊びに集中することができるのでしょう。


 そのように「見ていてくれる」と言ったとき、そこには誰かが一緒に居てくれるということが秘められています。しかも、ただ一緒にいるだけではなく、その人が ” 私 ” に注目していてくれるからこそ、嬉しい気持ちも悲しい気持ちも見て「知ってくれている」、そんなことがこの「見ていてくれる」という言葉の中には含まれています。自分の気持ちを分かってもらえることほど嬉しいことはありませんし、安心できることはありません。だからこそ、「見ていてくれる」ことが私の支えになるのでしょう。そして、「見ていてくれる」ということそのこと自体が、私を「照らしてくれている」ということなのかもしれません。


 そしてまさに、片時も離れずに私のことを「見ていてくださる」「照らしてくださる」のが阿弥陀さまでした。「南無阿弥陀仏」のお念仏が、いつどこでどんな風に称えても出てきてくださるのは、阿弥陀さまが私から一瞬たりとも離れず目を離さずにいてくださるからでありました。だからこそ、私たちはお念仏を称える度に、「あぁ、阿弥陀さまは私のことをちゃんと見ていてくださるなぁ」と感じていくことができるのです。


 「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えながら日暮らしさせていただくとき、私たちは「阿弥陀さまに絶えず見つめられている人」であることを知らされていきます。どんなときも見られているということは、私の恥ずかしい姿も知られているということですから、一方では背筋が伸びることでもありますが、しかし、絶えず見られているということを知ることは、私の人生の上に ” 独り ” という瞬間が全くなくなっていくということでもありました。つまり、「絶えず見つめられる」ということは、「分かってもらえない」という ” 孤独 ” から救われていくことでした。そして、「分かってもらえる」からこそ、なんとか「くじけずに」やっていけるのかもしれません。


  「 私を見ていて下さる人があり

    私を照らして下さる人があるので

    私はくじけずに 今日を歩く  」


 くじけそうなことばかりの毎日ですが、お念仏にこのいのち照らされながら、一日いちにちを丁寧に歩ませていただこうと思います。


称名


誓林寺
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2021年6月30日水曜日

2021年6月の掲示板

 



 梅雨の晴れ間の日差しがすっかり夏じみてきました。いよいよ夏がせまる中、境内に咲くアジサイたちは同じ株でもどれひとつとして同じ色はなく、今年もいろんな色で境内をキレイに彩ってくれています。雨が降れば、そのアジサイの上で、オタマジャクシから無事に成長した小さなカエルたちが嬉しそうに跳ね鳴いています。さまざまないのちの営みを感じながら今月も過ごして参りたいと思います。


 さて、今月の掲示板の言葉は、愛知県出身の詩人、伊藤 千秋(旧姓:小山)さん(1970~)の『一日』という題の詩を書かせてもらいました。素朴な言葉の中にあたたかなものを感じることができるそんな詩です。この詩を読んでいると、前の日にケンカをしても、「おはよう」と言葉を交わしたならば、スッと心が近づいて仲直りできるような、しょんぼりしていても、元気な声で「おはよう」と声をかけられたなら元気をもらえるような、そんな不思議な力が「おはよう」という言葉にはあるような気がしてきます。

 そんな風にこの詩では、お互いに「おはよう」とあいさつを交わすという何気ない場面から、心が通い合うことのよろこびが切り取られ詠まれています。そしてまた、あいさつを交わすのは、日常の中のほんの些細な瞬間かもしれませんが、その些細な瞬間が実は、「一日」を「うれしく」させるほど大切なことなんだ、という風にも読めてきます。


 そんな大事な「あいさつ(挨拶)」は実は仏教用語なのだそうです。「挨(あい)」は「押す」、「拶(さつ)」は「せまる」という意味で、相手の心に押し迫ること。つまり、禅の師匠が弟子に押し問答をして悟りの深さを探ることを「挨拶」と言います。そこから意味が派生して、現在使われているような、誰かに会ったときや別れるときに交わす言葉のことを「あいさつ」と言うようになったそうです。その「あいさつ」の語源からうかがえば、「おはよう」という言葉にもきっと「相手の心に押し迫る」というはたらきがあるのでしょう。つまり、「おはよう」と声をかけられたとき、私の心が押し開かれていく。そして、その押し開かれた私の心が「おはよう」と応えていくとき、相手の心もまた押し開かれていきます。そうやって互いに心開かれていくからこそ、あいさつを通して心通わせ合っていくことができるのかもしれません。


 さて、人と人が心を開き合う言葉が「おはよう」ならば、私と阿弥陀さまの心が開き合う言葉は「南無阿弥陀仏」のお念仏でした。「南無阿弥陀仏」と阿弥陀さまの声が私に聞こえるとき、私の心は、自己中心的な思いに閉じこもっている殻を破られ、まことの世界に心開かれていきます。具体的に言えば、私が腹を立てたり、過剰に自信を持ちすぎたり、逆に思い通りに行かなくて悲しんだり落ち込んだりするのは、全部自分の思いにとらわれすぎることによって起こってくることです。そんな私に阿弥陀さまはお念仏となって、「南無阿弥陀仏 また自分の思いにとらわれていないか?」と問いかけてくださるのです。そうやって、自分の思いの中に閉じこもれば閉じこもるほど苦しみを生んでいく私の心を開いてくださる言葉、それが「南無阿弥陀仏」のお念仏でした。そして、心開いてもらった私が阿弥陀さまに「ありがとうございます」と応える言葉も「南無阿弥陀仏」でありました。

 そしてまた、私から阿弥陀さまへ自分では消化しきれない苦しみ悲しみの心を吐露し開いていく言葉も「南無阿弥陀仏」でありました。私が阿弥陀さまに「南無阿弥陀仏」とわが心を開いていくとき、阿弥陀さまもまた心を全開にして「南無阿弥陀仏 あぁ、そうか。苦しかったね。悲しかったね」と私の苦しみ悲しみを受け止めてくださるのです。そうやって、お念仏を通して阿弥陀さまの心のぬくもりにも触れていくのでした。ですから、お念仏を称えるということは、阿弥陀さまと心を通わせながら、対話をし、まことの心に触れていくということでありました。そんな阿弥陀さまと私のやりとりをこの詩に寄せて詠むならば、


「 なもあみだぶつ

  その声がきこえるだけで

  なもあみだぶつ

  その言葉にこたえるだけで

  ちゃんと ありがたい 一日になる 」


ということになるでしょうか。お互いさまに「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」とお念仏を称え、阿弥陀さまと心通わせながらまことに触れる「ありがたい」1日いちにちを過ごしていくことができたら嬉しいなと思います。


称名


誓林寺
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2021年5月24日月曜日

2021年5月の掲示板

 



 例年よりずいぶん早く梅雨入りし、五月晴れとは正反対の空模様が続いています。けれども、新緑のみずみずしい色から少しずつ深まりを見せすっかり落ち着いた山の色は、梅雨の雨でホコリも落ち、さらに山の表情をくっきりとさせています。若く明るい緑は見るものに活力を与えてくれますが、成熟し深まる緑は私たちに落ち着きを与えてくれるようです。コロナと雨で心がそわそわしがちな時季ですが、悠然とたたずむ山々に心を落ち着かせてもらいながら過ごして参りたいと思います。


 さて、今月の掲示板の言葉は、「RADWIMPS(ラッドウィンプス)」というアーティストの『大丈夫』という歌の歌詞から書かせてもらいました。この曲は、2019年に公開された『天気の子』というアニメ映画の曲として書き下ろされたものです。この曲を映画の中で聞いたときに、この歌詞がとても胸に響きました。そして同時に、これはまさに阿弥陀さまのおはたらきに重なるなぁと感じました。言葉自体は難しくありませんが、この歌詞が言わんとしている心をみ教えに寄せながら味わってみたいと思います。


 まず「大丈夫」という言葉ですが、この言葉には「あぶなげがなく安心できるさま。まちがいがなくて確かなさま」という意味があります。また仏教では、さとりを目指す「菩薩(ぼさつ)」のことを「大丈夫」と呼ぶこともあります。まさに聖道門(しょうどうもん)と言われる自分を鍛え高めながらさとりを目指す仏教は、「私が大丈夫になる」ことを目指していると言ってもいいのかもしれません。それはつまり、自分の人生の上に起こってくるすべての出来事を自分一人きりで受け止め切っていくということなのでしょう。


 けれども私はと言えば、日常の小さな出来事でさえ受け止めきれずに右往左往し、悩み心苦しい日々を送っています。そんな私が「大丈夫になる」ことは到底かないそうにありません。そして、そんな私に対して「大丈夫になれ」という言葉ほど酷(こく)なものはありません。だからこそ、阿弥陀さまは私に「大丈夫になれ」とは仰いませんでした。阿弥陀さまは、大丈夫になれない、つまり苦しみも悲しみも自分では受け止めきれない私がここにいると見抜いてくださったからこそ、「そのあなたの受け止めきれない苦しみ悲しみを受け止め支えられる存在になりたい」と願ってくださったのでした。そして、その願いが願いの通りに完成し届いてくださっているすがたが「南無阿弥陀仏」のお念仏でありました。


 阿弥陀さまは、私がお願いしたからお念仏となって届いてくださっているのではなく、私がたのむより先に阿弥陀さまの方から「私がいるから大丈夫」と届き支え続けてくださっているのです。だからこそ、私が苦しい現実から目を背け逃げたとしても、悲しみに押しつぶされても、その私をそのまま包み込み「私がいるから大丈夫」とお念仏となって喚(よ)びかけ続けてくださるのです。その喚び声に支えられ続ける中で、ひとりでは大丈夫になれない私が自分の人生と少しずつ向き合っていくことができるのでしょう。


  「 君を大丈夫にしたいんじゃない

    君にとっての「大丈夫」になりたい 」

 

 私の代わりに私の人生を受け止めきることができる「私にとっての『大丈夫』」になってくださった阿弥陀さま。その阿弥陀さまのあたたかな喚び声の中を、私なりに右往左往しながらも精一杯生かさせていただきたいと思います。


称名


誓林寺
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2021年4月26日月曜日

2021年4月の掲示板

 



 4月も後半になりましたが、今年の春は全体的にいつもより2週間ほど早く季節が巡っているらしく、例年はゴールデンウイークあたりに咲き出すつつじも藤もすっかり咲いてしまい、気温も春というよりは初夏のようです。そのような中で、田んぼの作業もいよいよ本格化し、水を引き始めた所もあり、そこかしこでカエルが嬉しそうに鳴いています。この時期にこれだけ暑くなると夏はどうなるんだろうと心配になりますが、少しずつ暑さに身体を慣らしながら過ごして参りたいと思います。


 さて、今月の掲示板の言葉は、さまざまな植物が色とりどりに咲き誇るこの時期に味わいたい言葉を書かせてもらいました。この言葉の作者は分かりませんが、今月もこの掲示板の言葉を通して少しおみ法を味わってみたいと思います。


 さまざまな感覚器官を使って、身の回りの物を確認しながら生きている私たちにとって、自分に感じられる、確認できるということほど安心できることはありません。中でも五感のうち、8割以上を視覚に頼っていると言われている人間にとって、やはり「見える」あるいは「目で確認できる」ものに頼りがちです。けれども、じゃあ目に見えないものは安心できないもの・信頼できないものなのかというとそうではありませんでした。

 そうではないものの1つが「力(はたらき)」です。私たちの目には「力」そのものは見えません。けれども、モノが動いたり止まったり変化することで、そこに「力」を感じていくことができます。そして、実はその目に見えない「力」こそが私のいのちを支えているのです。またここで大事なことは、私たちが「力」を感じることができるのはいつでもその「力」がはたらいて変化した後、つまり、いつでも「力」が先手ということです。


 植物は自分の力で光を集め土から栄養を吸収し花を咲かせますが、ここで言われている「花を咲かす力」とは植物自身の力ではなく、もっと大きなところから植物そのものを突き動かすようなはたらきのことを言っておられるのでしょう。そしてその大きなはたらき(力)を私たちは「春」と呼ぶのです。先ほど触れたように「力」はいつでも私が感じるより先ですから、花が咲くから春になるのではなく、春というはたらきによって花が咲くのでした。


 同じように、私たちはひとり一人精一杯自分の力で生きていますが、より大きなところから先手ではたらき、私たちのいのちそのものを突き動かし支える力のことを「仏」というのでした。ですから「仏さま」とは、お寺やお仏壇にご安置されているような ”姿” のことではなく、私のいのちを「人となす」 ”はたらき(力)” のことを言うのでした。でも、はたらきは目には見えませんから、その見えぬはたらきを形として示してくださったのがお寺やお仏壇のお立ち姿の阿弥陀さまという仏さまなのです。


 では、ここで言われている「人となす」とはどのような意味なのでしょうか。それぞれにいろんな味わいがあるとは思いますが、私は今、この「人となす」とは、「私が自分の人生を真正面から受け止めることができること」、つまり、「生まれてきてよかった。」と自分が人として生まれてきた人生に納得できる "いのちの視点(智慧)" を恵まれることと受け止めさせてもらっています。


 私たちは思い通りになることは比較的納得しやすいです。けれども私たちの人生は、思い通りにいくことよりも思い通りにならないことの方がはるかに多いです。そして、ときには自分ひとりでは受け止めきれないほどの悲しみにも出会っていかなければなりません。その自分ひとりでは受け止めきれないものと正面から向き合うために、一緒にその悲しみを背負い、乗り越え受け止めていくだけの智慧を与えてくださるのが「南無阿弥陀仏」のお念仏の仏さまでした。

 私の口からお念仏が出てくださるのは、阿弥陀さまが先手で私にはたらいてくださっているということでありました。ですから、お念仏を称えたから阿弥陀さまがはたらいてくださっているのではなく、私の口からお念仏が出ているということが阿弥陀さまのはたらきの中にあるということであり、まさに、お念仏を申しながら生きる人生を歩む中に、大きなはたらきによって自然と自分の人生をしかと受け止められる(人となる)人生が恵まれていくのでありました。


 「 花咲かす 見えぬ力を 春という

   人となす 見えぬ力を 仏という 」


 目には見えなくても、お念仏が出てくださっている ”今” ”ここ” に、まさに阿弥陀さまの私のいのちを支えるはたらきを感じながら過ごして参りたいと思います。


称名


誓林寺
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2021年3月30日火曜日

2021年3月の掲示板

 



 春分を過ぎて寒さも和(やわ)らいできました。それを見計らっていたかのように境内の桜はどんどんつぼみを膨らませ4月を前にとうとう満開になりました。薄ピンクの花を目の前にすると、理屈なしに「春」を感ぜずにはいられません。桜を咲かせた春の陽気に誘われて散歩をすれば、近所の田んぼでは冬の眠った土を掘り起こすトラクターが動いています。暖かくなったからといって冬でなまった身体を急に動かして壊さぬよう、身体も丁寧に準備手入れをしながら過ごしてまいりたいと思います。


 さて、今月の掲示板の言葉は、詩人の岩崎 航(いわさき わたる)さん(1976~)の『点滴ポール 生き抜くという旗印』という本の中にある詩の1編を書かせてもらいました。3歳で進行性の筋ジストロフィーを発症され、病気の苦しみと闘い、また病状が進行するにつれできることがどんどん減っていく中で、自身の「いのち」と真っ向から向き合ってこられた岩崎さんの詩は、1編5行の詩でありながら、一つひとつの言葉に生き抜く力強さと説得力を感じます。この詩も、自分の心と丁寧に付き合ってこられたからこそ紡(つむ)ぎ出された言葉なのでしょう。


 ところで、「耕す」と言えば、お釈迦さまにまつわるこんなお話があります。ある時、お釈迦さまが托鉢(たくはつ:食べ物の供養を受けること)をしていると、バーラドヴァージャという人が収穫した食べ物を配っているところに出会われます。お釈迦さまもその供養を受けるためにその人のそばに立たれます。すると、バーラドヴァージャはお釈迦さまに向かって、「みんなは種をまき、田んぼを耕して(=仕事をして)食べ物をもらっているんだ。あなたも種をまき田んぼを耕したらどうだ。」と揶揄(やゆ)します。これに対してお釈迦さまは、「私は仏法を説くことで信仰の種をまき、心を耕し、さとりを開くというこの上ない実りを届けているのだ。だから私は食べ物の供養を受けるのだ。」と応えられたのだそうです。


 潤いを失い寒さで凍った冬の田んぼの土は固いですが、軽い衝撃でボロボロとひび割れ崩れてしまいます。その固く乾いた土では植物は十分に根を伸ばすこともできず、のびのびと成長することもかないません。それは、私たちの心も同じでした。「私の思い」に閉じこもり荒(すさ)んだ心は頑(かなく)なで、なかなか自分以外の言葉が聞けず、閉じこもれば閉じこもるほど苦しくなって、ちょっとしたことで「いつのまにか ひび割れ」てしまいます。だからこそ、固くなってひび割れる前に、あるいは大事な言葉が聞こえなくなる前に、こまめに「心の田んぼ」を「耕す」ということが大切になってくるのでしょう。


 では「心の田んぼを耕す」とは具体的にどうすることなのかと言えば、仏教徒にとってはお釈迦さまが仰ったように仏法に出遇(であ)うことでありました。なかでも、浄土真宗において仏法に出遇う・「心を耕す」というのは「南無阿弥陀仏」とお念仏を称(とな)えることに他なりませんでした。お念仏を称えるということは、阿弥陀さまの「まこと」を知らせる声を聞くということです。それはつまり、「私の思い」に閉じこもり暗く狭くなってしまった私の心に阿弥陀さまの智慧という鍬(くわ)が入り、頑ななわが心が解きほぐされ、大事なもの・幸せに気付くことができる心の土壌が育まれていくということでした。そうやってお念仏によって耕された心には、私のいのちを支える仏法という木が大きく根が張り、阿弥陀さまの「まこと」を知らせる声に導かれながら生きる明るく広い世界が開かれていくのでした。


  「 いつのまにか

    ひび割れぬよう

    心の田んぼ

    耕していく

    黙々と    」


 年度末の忙しさについつい阿弥陀さまのことを忘れがちな私です。でも、だからこそ、少なくとも朝晩にはお仏壇の前に座り、阿弥陀さまに手を合わせ、お念仏を称え、阿弥陀さまの声に触れていく生活を送りたいなと思います。そうやって忙しさに心固くならないよう、毎日毎日わがいのちに手入れをしながら過ごしてまいりたいと思います。


称名


誓林寺
http://seirinji.main.jp