2018年12月1日土曜日

新しい法座のご案内


来年(2019年)から新しい常例法座が始まります。

その名も、お正信偈の会です。

 そのまんまですが、みなさまとご一緒にお正信偈をお勤めさせていただき、お正信偈の内容を少しずつ読み進めていきたいなと思っています。お話は若院がさせていただきます。なるべく難しくなりすぎないように注意をしながら、気楽に足を運んでもらえる、そんな会にしたいなと思っております。
 また、この会に合わせてその月毎の祥月法要もさせていただきます。「お正信偈の会」の詳細は下記のご案内をご確認いただければ幸いです。

初回は、
1月19日()10時~ です。

参加費はありません。ちょっと立ち寄ってみました、くらいの感じで気楽にお参りしていただきたいなと思います。みなさまのお越しをお待ちしております。
合掌



2018年12月の掲示板


 いよいよ2018年最後の月となりました。これから冬本番、コタツから出られない日々になりそうですね。ここ長沢は南北に山があるため日の出が遅く、夕暮れが早いです。太陽の軌道が低くなるこの季節はより顕著になります。そのため、最近は午後3時過ぎになると太陽が山に隠れてしまって、急に気温も下がりだすのでなんだか1日が早く終わってしまうようでさみしい気持ちになってしまいます。おひさまの光がますます恋しくなる季節、今年やり残したことを片付けつつ、新年を迎える準備を進めて参りたいと思います。

 さて、今月の掲示板の言葉は私の大好きな詩を紹介させていただきました。この詩は、童話作家の工藤直子さんが紹介してくださった野原に住むこねずみさんのおうたです。この詩に出会った瞬間に一目惚れしてしまいました。おでこからしっぽの先まで、おひさまのあたたかさを全身で受け止めている素直で可愛いくてあったかい詩です。

 私たちは外へ外へとモノを求めていきます。けれども、太陽のぬくもりは遠く離れた宇宙まで取りに行かなくてもいいのです。なぜなら、そのぬくもりは今もう私のところまで届いているからです。こねずみさんのように、この身いっぱいに太陽の光を受け止めた時、おのずとぬくもりを感じていくことができるんですね。阿弥陀さまのぬくもりもどこか遠くに求める必要はありませんでした。「今」「ここ」に届いてくださっている「南無阿弥陀仏」のお念仏が阿弥陀さまのぬくもりのありだけでありました。そのありだけを全身で受け止めた時、おのずと阿弥陀さまの大きなお慈悲のぬくもりが感じられるのかもしれません。

 「かずかぎりないいのちのなかから
  ちっぽけなこのわたしひとり
  みつけだして
  おでこからあしのつまさきまで
  おじひであたためてくれるのね
  ・・・・・・
  あみださま
  ぼく
  ドキドキするほどうれしい」

私にはこんな風に聞こえてきました。お念仏のぬくもりをこの身に受けながら、心あたたまる1日1日を過ごしていきたいなと思います。
合掌



2018年11月28日水曜日

報恩講を終えて


 先日11月25日、快晴のもと、無事当山誓林寺の報恩講法要を勤めることができましたこと、まことに嬉しく有難く思います。報恩講は、仏具をおみがきしてくださった婦人会の役員さん、数日かけて立派な松の立花を生けてくださったご門徒さんや、幕を張り、旗を出し、会場を整え、駐車場の案内をし、参拝者の受付をしてくださった世話方のみなさん、参拝者のお斎を作ってくださった婦人会の方々のご協力があってこそ準備が整い、そして報恩講に参拝してくださるご門徒さんたちがいてはじめて迎えることができます。ご協力をいただいた方々、報恩講にお参りくださったみなさま、まことにありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。

 さて、報恩講を勤めさせていただく意義は、宗祖親鸞聖人のご苦労に報恩感謝をすることですが、なによりの「報恩」は、私たち一人ひとりが阿弥陀さまに出遇わせていただくことでありました。
 この度は、若院が京都の伝道院でお世話になった藤本文隆先生にお取り次ぎをいただきました。「なもあみだぶつ」というお念仏は、私のいのちを支えてくださる言葉として阿弥陀さまから届けられていること。そして、阿弥陀さまは、太陽が野に咲く小さな花にもさんさんと光を降り注ぎ、そのいのちを輝かしていくように、私のいのちを照らし、ぬくもりを与え輝かしてくださる、そんな仏さまでることをお聞かせいただきました。また、ご法義は人を通して伝わっていくのであり、日常や法事、お寺の法要などの中で宗教的空間を共にすることの大切さを改めて教えていただきました。これからもみなさまとご一緒に阿弥陀さまのおみのりをお聴聞して参りたいと思います。

〔おまけ〕
 今年も去年に引き続き、お昼の休憩時間に絵解きをさせていただきました。2年目で、まだまだこれからも手探りは続きますが、楽しみながら聞いてくださる方もいてホッとしています。完結まであと6年、私自身も楽しみながら続けていきたいと思います(完結してもまた初めからやる予定です)。初めて聞きに来てくださる方も楽しんでいただけるように工夫しながらやっていきますので、今年来られなかった方も、来年からぜひ来てみてください。

合掌

2018年11月3日土曜日

11月行事のご案内


法座のご案内です。
11月25日()午前10時~、午後1時~
 誓林寺の報恩講
 をお勤めいたします。
 ・お勤め 正信偈(行譜、草譜)
      御伝鈔(上巻 第三段、第四段)
      御俗姓
 ・法話  藤本 文隆師 〔奈良教区 添下組 西教寺〕
   
  ☆お斎(おとき:食事のこと)が出ます。
   また、お昼休憩の間に若院による御絵伝※の絵解きもあります。
   (15分程度、同内容のものを2回します)
   ※御絵伝は親鸞聖人のご生涯を絵であらわしたものです。


 報恩講とは、ご開山親鸞聖人のご命日法要です。この法要を通して、浄土真宗のみ教えを生涯をかけてお伝えくださった親鸞聖人のご苦労を偲び、そのおかげで今、阿弥陀さまに出遇えたご恩に報謝するのです。親鸞聖人がおられなかったら浄土真宗はありません。だからこそ、1年を通して一番丁寧にお荘厳(お飾り)をして報恩講をお迎えさせていただきます。

 「1年は報恩講のために 報恩講は1年のために」

 親鸞聖人のご恩を思いつつ、阿弥陀さまのぬくもりをみんなで感じさせていただく、そんな報恩講にさせていただきたいなと思います。どうぞお誘い合わせてお参りくださいませ。


2018年11月の掲示板



 11月になり、朝晩の冷え込みが厳しくなってきました。この冷え込みがキレイな紅葉を作るそうですが、今年は台風の影響で銀杏や楓などすでにほとんど落葉してしまったものもあり、少し寂しい秋になりそうです。残った葉っぱの中には、立派に紅葉するものもあれば枯れて落ちてしまうものもあるでしょう。しかし、それぞれがそれぞれの役割をしっかりと果たして次に来る季節に備えていのちを繋いでいくのでしょう。私たちはついつい目立つものに目を惹かれがちですが、目も向けないようなところにこそ実は大切なものがたくさん隠れているのかもしれません。

 さて、今月の掲示板の言葉は島根県の妙好人、善太郎さんのお言葉です。「ご恩」という言葉をなかなか日常で使わなくなってきましたが、大切に残していきたい言葉だなと思います。「恩」という字を『漢語林』で引いてみると、上の「因」という字に「いつくしむ」という意味があり、それに「心」がついて「いつくしむこころ」を表すのだそうです。そして、それを受けた者が有難く思う行為のことも「恩」というのだそうです。また「恩恵」と熟語するように、「めぐみ」という意味もあります。いずれにしても私のいのちを支え、大切にしてくれる思いやモノのことですね。

 「芋もご恩 大根もご恩 ごぼうもご恩」

 私の周りには気付かないだけでたくさんの「ご恩」が溢れています。見逃してきた大切な「ご恩」がたくさんあるのでしょう。これからもいっぱい見逃してしまうかもしれません。だからこそ、普段から身近なところから「ご恩」を見つける練習をしていきたいなと思います。特に今月は報恩講が勤まります。仏さまのご恩、親鸞聖人のご恩、皆さんとご一緒にしっかりとお聞かせいただきたいなと思います。
合掌


2018年10月1日月曜日

2018年10月の掲示板



 10月になりました。先月末に大型の台風24号が日本に上陸し騒がしい月初めとなりましたが、今は台風一過、昨日の強風と大雨がウソのような快晴です。今回の台風でも各地で様々な被害が出ています。心からお見舞い申し上げますとともに、もうこれ以上災害が起こらないことを願うばかりです。

 さて、今月の掲示板の言葉は、前回掲載したことがある妙好人、浅原才市さんのお詩です。なんとも語呂のよい詩で、何回でも口ずさみたくなります。内容については何も解説がいらないほど平易な言葉で綴られていますが、このやさしい言葉の奥には深い味わいがあるように思います。

 浄土真宗のみ教えは、「絶対に腹を立ててはいけない」というものでもなければ、「愚痴をこぼしてはいけない」というようなものでもありませんでした。腹を立てるのはよくないことだと知ってはいても腹は立ってしまうし、愚痴をこぼしたくなくても腹の底から溢れ出てしまうのが私たちでした。

 阿弥陀さまは、そんな私を責めはしないですが、放っておかれる仏さまでもありませんでした。行き場のない怒りも、誰にも受け止めてもらえないような愚痴も、「私が受け止めていこうぞ」というてくださるのが私たちの阿弥陀さまでありました。そして、行き場を得た怒りや愚痴は自然と納まっていくように思います。

 腹が立った回数を数えるとむなしい気持ちになりますが、おかげで何回阿弥陀さまのぬくもりに触れることができただろうかと思うと「怒り」の受け止めも随分変わってくるようです。

「腹が立つときゃ ぶつぶつ申せ
 ぶつもぶつぶつ なもあみだぶつ」

お彼岸過ぎて少しずつ寒くなっていくこれから、阿弥陀さまのぬくもりを感じながら1日1日を大切に過ごしたいなと思います。
合掌

2018年9月24日月曜日

秋季彼岸会を終えて


 昨日、晴天のもと爽やかな秋の風を感じながら当山誓林寺の秋季彼岸会を勤修することができました。ご参集のみなさまとご一緒にお正信偈をお勤めし、その後、住職・若院がお取次ぎをさせていただきました。

 お聴聞を通して、阿弥陀さまの願いの中に私のいのちの意味と行き先を聞き受けていくとき、お浄土という世界は「あるか・ないか」という世界ではなく、「なくてはならない」世界になっていきます。大切な方が「仏さま」となって待っていてくれる世界として、私のいのちを導いてくださる世界として阿弥陀さまがご用意してくださった世界、それがお浄土でありました。そして、お釈迦さまがそのお浄土は「西方」にあるんだと示してくださったからこそ、私たちは沈みゆく夕陽の奥にお浄土を偲んでいくことができるのです。

 心豊かないのちの世界を私たちの上に開いてくださる「お浄土」という世界は、「阿弥陀さま」という仏さまは、これだけ聞いたら「分かる」というものではありません。一生涯をかけてこの身の上に聞かせていただき「仰いでいく」ものです。これからも、ご法縁の中でみなさまとご一緒にお聴聞してまいりたいと思います。

合掌

2018年9月5日水曜日

9月行事のご案内


法座のご案内です。

9月23日()午後1時半~3時頃まで
 誓林寺の秋季彼岸会
 をお勤めいたします。
 ・お勤め
 ・法話:住職・若院

 太陽が沈む西の彼方に、私たちのいのちの故郷、そして大切な方々が生まれて往かれた阿弥陀さまの国お浄土があるとお経さまには説かれています。
 お彼岸のご縁を通して、私たちのいのちの意味と行き先をご一緒にお聞かせいただきたいと思います。
 どうぞお誘い合わせてお参りくださいませ。


9月15日()朝8時から
 誓林寺の墓地清掃
 を行います。
 ※誓林寺に墓地をお持ちの方

 秋季彼岸会の前に、墓地をお持ちの方とご一緒にお墓の掃除をいたします。
 お墓をキレイにして、お彼岸をお迎えしましょう。


2018年9月の掲示板



 台風21号の上陸により、関西を中心に日本各地で大きな被害が出ましたこと、心よりお見舞い申し上げます。

あっという間に8月が過ぎ、気が付けば9月に入りました。今月は秋のお彼岸を迎えます。季節の変わり目、体調にはくれぐれも気を付けて参りたいと思います。

さて、今月の掲示板の言葉は、詠み人知らずのお詩です。今月迎える「お彼岸」の「彼岸」とは悟りの世界、つまり仏さまの国お浄土のことです。お浄土と言っても、薬師如来の東方浄瑠璃世界や阿閦如来(あしゅくにょらい)の東方妙喜国、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)の蓮華蔵世界、そして釈迦如来の無勝荘厳国などいろいろあります。

けれども、春分・秋分を指して「お彼岸」と言ったときは、阿弥陀如来のお浄土、極楽世界を意味します。なぜなら、『仏説阿弥陀経』というお経さまの中に、
 「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽という。」
と阿弥陀さまのお浄土の方角が示され、まさにそのお浄土のある方角、真西に太陽が沈んでいくのが春分・秋分だからです。

このお浄土は、私たちのいのちの帰りゆく故郷として、阿弥陀さまがご用意くださった世界です。ですから、今がお浄土参りの道中です。いつ終わっても必ずお浄土へ生まれることができる「南無阿弥陀仏」の道を歩ませていただいているのです。

一日一日を、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお念仏申しながら、しっかりと、そして楽しみながら歩んでいきたいと思います。

合掌



2018年8月5日日曜日

2018年8月の掲示板



 うだるような酷暑が続く中、いよいよ第100回目の甲子園が始まりました。
お寺にとっても大切なお盆のシーズンも近づいてまいりました。

今月の掲示板の言葉は、島根県は石見におられた妙好人、
浅原才市さん(1850~1932年)が詠まれたお詩。
ただ死んで逝くだけのいのちであったと思っていたけれども、
浄土真宗のみ教え、阿弥陀さまの願いを聞いてみれば、
なんとこの身は死んで逝くいのちではありませんでした。
この身は、お浄土に仏さまとして往き生まれ、
阿弥陀さまと同じように「南無阿弥陀仏」のお念仏の声となって
すべてのいのちの上に躍動し続ける尊いいのちでありました。
そんなよろこびのお詩です。

そう、だから先にお浄土に生まれ仏さまとなられた方々は、
お盆だけに帰って来られるのではないのです。
24時間365日ずーっと「南無阿弥陀仏」の
お念仏の声となって私を支え続けていてくださいます。
けれども、そのことも日々の生活に追われて忘れがちです。
だからこそお盆という仏事を通して今一度、亡き方を偲びお念仏申し、
そしてまた、私のいのちの行く末をゆっくりと
見つめさせていただきたいなと思います。

合掌




2018年7月20日金曜日

2018年7月の掲示板




気が付けば7月も下旬に入りました。
連日の猛暑で体がバテております。
どうぞみなさんも熱中症にはくれぐれもご注意ください。
さて、遅くなりましたが掲示板を更新しました。
今月の言葉は、『ことばのしっぽ』という本より小学生の詩を載せました。
とても素直なことばで綴られた大きな気付き。
「いのちって大きさじゃないんだね」という発見は、仏さまと同じ視点だなと思わされます。
一つひとつに紡がれてきた大切な大切ないのち。
その大切ないのちを、ないがしろにし傷つけてしまう私がいます。
だからこそ、大事なことを見失わないように、折に触れて仏さまのお話を聞いていきたいなと思います。
そして、折に触れてお念仏を称え、「南無阿弥陀仏」という阿弥陀さまの私を真実に目覚めさせる喚び声に耳を傾けていきたいなと思います。
合唱

2018年6月10日日曜日

6月のご法語


「自力の御はからいにては真実の報土へ生るべからざるなり」


 今月のお言葉は、親鸞聖人が関東のご門弟に書かれた『ご消息(お手紙)』の中の言葉です。
 さて、浄土真宗のお話を聞き始めるとよく耳にする言葉がいくつかあります。その中に、「自力」と「他力」という言葉があります。みなさんも一度は耳にされたことがあるのではないでしょうか。この2つの言葉を浄土真宗で使うときには、省略されている言葉があります。それは、「~でお浄土に生まれる」という言葉です。

 つまり「自力」とは、「自分の力でお浄土に生まれる」ということ。「他力」とは、「阿弥陀さまのおはたらきでお浄土に生まれる」ということです。
 ですから、自分が頑張って誰かに良いことをすることがそのまま「自力」なのではありません。また反対に、誰かの力・助けをあてにすることも「他力」とは言いません。ただし、「自分が良いことをしたことでお浄土に生まれられる」と思ったなら、それは「自力」になります。

 つまり、自分のしたことで「お浄土に生まれられる」と思ってみたり、逆に、こんなことでは「お浄土に生まれられない」と思ってみたりと、お浄土往生に対して自分をあてにする「心」のことを「自力」というのです。それを親鸞聖人は「自力の御はからい」と仰いました。そして、この「自力の御はからい」では「真実の報土(お浄土)」に生まれることはできないと仰っています。つまり、お浄土は自分がどうこうして生まれて往く世界ではないんだということを仰っているのです。

 ではどうやって生まれて往くのかと言えば、「他力」によってお浄土に生まれて往くのです。「他力」とは、阿弥陀さまの「どうかお浄土に生まれてきてほしい」という「願い」のことです。この阿弥陀さまの願いは、私が良いことをしているときも、悪いことをしているときも、はたまた何もしていないときも決して変わることなく、途切れることなく私にかけ続けられています。この阿弥陀さまの願いによって必ずお浄土に生まれて往く、これが浄土真宗が大切にしている「他力」という言葉なのです。

 そして、阿弥陀さまの願いの中にいるという何よりの証拠が、私の口から出てくださる「南無阿弥陀仏」のお念仏です。お念仏が出てくださるからこそ、願いの中に安心して生きていくことができるのです。

2018年6月の掲示板


お寺の掲示板を更新しました。

欲しいものが手に入ったり、願いが叶ったとき、私たちは「うれしい」「しあわせ」と言います。
けれども、自分の外側に喜びや幸せを求めているときは、どこまでいっても満たされることはありません。
「しあわせになりたい」という思いには、その裏に「今はしあわせじゃない」という言葉が隠れています。
今、自分に与えられているものに目を向け、そのことを「しあわせ」と言って行けたなら毎日が満たされた1日になっていくのではないでしょうか。

7月1日㈰8時から「1日の会」があります。
どうぞお参りくださいませ。




2018年5月31日木曜日

「誓林寺だより」始めました


誓林寺の日々をお伝えするブログ「誓林寺だより」を始めました。
若院のふと感じたことや法座案内などをあげていきたいと思います。
不定期にゆるりとやっていきますので、気楽にお読みください。