2020年12月19日土曜日

2020年12月の掲示板

 


 新型コロナウイルス一色の令和2年もいよいよあとわずかとなりました。そして、季節感を欠いた暖かい日もとうとう終わりを告げ、本格的な寒さがやってきました。毎日寒さに身を縮めていますが、朝の澄んだ空気が肺まで入ると体がシャキッとするので、寝ぼけた体にはちょうどいいのかもしれません。とはいえ、世間は本当に油断できない状況になってきました。くれぐれも体調には気を付けて年末年始を迎えたいと思います。


 さて、今月の掲示板の言葉は、前にも一度ご紹介した本山の御正忌報恩講(親鸞聖人のご命日法要 1月9日~16日)に際して毎年ご門徒のみなさまから募集される「御法楽献詠(ごほうらくけんえい)」に入選したおうたのひとつです。今月もおうたの言葉を読み解きながらおみ法を味わってみたいと思います。


 「うつし世」は「現世」とも書くように、今私たちが生きているこの世界のことを指します。私たちの生きるこの世界は、もちろん楽しいことも嬉しいこともありますが、それだけでは決して済まず、なかなか思うようにいかずに苦しんだり、時には言葉を失うほどの悲しみにも出遭っていかなければならないのがこの世界でありました。だからこそ、仏教ではこの世界のことを「娑婆(しゃば)=堪忍土(かんにんど)」、つまり、「苦しみ・悲しみ」を耐え忍んでいかなければならない世界と呼ぶのでしょう。


 この度の新型コロナウイルスも日に日に深刻化し、理不尽に多くの苦しみを生んでいます。今の状況は、まさに「生き難い」この世界の姿が顕著になっている状況と言ってもいいのかもしれません。では、私たちはこの生き難い世の中を、ただただ苦しみを堪(こら)えながら生きていかなければならないのでしょうか。否、作者の新道さんは「生き難いからこそ」と仰います。おうたの続きを読むと、「ゆったりと 大悲の風に この身まかせむ」と言われています。


 「大悲の風」とは、阿弥陀さまが私のいのちを底から支えんとしてくださるはたらき(大悲)を「風」にたとえてくださったものです。生き難いうつし世の風が、身も心も刺す冬の凍(い)てつくような風ならば、「大悲の風」とは、冬に積もり積もった雪や氷を解かす春のあたたかな風なのでしょう。春の風が無理なく自然に逆らわず穏やかに冷たい雪を解かしていくように、阿弥陀さまの大悲の風もまた、私たちに負担をかけず、それぞれのペースに合わせて無理なく、悲しみに冷え切った私たちの心をあたためて解かしてくださる、そんな風なのでしょう。つまり、それぞれが「苦しみ・悲しみ」をしっかりと受け止めることができるまで、気長にずーっと「苦しみ・悲しみ」をともにしながら支えてくださるのが阿弥陀さまでありました。急がなくても焦らなくてもいいように、私たちひとり一人に合わせて吹いてくださる「大悲の風」。だからこそ、「ゆったりと」この身を預けていくことができるのでした。


  「 生き難き うつし世ゆゑに 

    ゆったりと 大悲の風に この身まかせむ 」


 厳しいうつし世の風は幾度となくこの私の身に吹きかかりますが、だからこそ、私の心をあたためんとはたらき続けてくださっている阿弥陀さまの「大悲の風」を感じながらこの冬も乗り越えていきたいと思います。


合掌


誓林寺
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2020年11月30日月曜日

2020年11月の掲示板

 



 報恩講を彩ってくれたイチョウの木もすっかり散りましたが、その下には黄色の絨毯が敷かれています。境内の木々は日に日に葉の衣を失い見た目も寒そうです。空には冬らしい低く暗い雲がかかるようになり、いよいよ身の冷える季節がやってきそうな気配がします。この冬は寒くなるそうですから、身も心もあたたかくして冬を迎えたいと思います。


 さて、今月の掲示板の言葉は、真宗僧侶の東井義雄先生(1912‐1991)のお言葉を書かせてもらいました。 言葉の解説は必要ないと思いますが、この詩をもってなにをあらわさんとしてくださっているのかを少し味わってみたいと思います。


 私事ですが先々月あたりから、息子が外を歩くようになりました。運動量が格段に増え、動き回って疲れたあとは、親にひざ上で抱っこされると眠さに抗(あらが)いきれずそのままぐっすりと寝てしまいます。親に身をゆだねながらひざの上でスヤスヤと眠る息子の姿と、今月の掲示板の言葉が重なります。

 

 寝ている息子はきっと抱かれているということも忘れて夢の中にいますが、しかし、親に抱かれているからこそ確かに伝わる温もりの中に安心しきって眠っているのでしょう。子が親の存在に気付いても気付かなくてもわが子を抱くその姿が、“いのちの親さま”である阿弥陀さまのおはたらきに重なってきます。

 

 阿弥陀さまは、私が阿弥陀さまに気付く前から、「大事なあなたのいのち、この阿弥陀が必ずお浄土に生まれさせ、仏にしてみせる。そのいのち、決して無駄ないのちにはさせない。」と私を抱いてくださる仏さまでありました。その抱かれる温もりの中にあってこそ、私は阿弥陀さまのはたらきに気付くことができるのです。そして、気付いたときにはいつでももうすでに阿弥陀さまの腕の中でありました。


   「 きづかなくても

     大いなる

     親のひざの上  」

 

 浄土真宗のみ教えは、これからどうしていくのかを聞く教えではなく、今すでに私のいのちをしっかりと抱いていてくださるいのちの親さま、阿弥陀さまがいてくださることを聞かせていただく教えでありました。そして、阿弥陀さまに抱かれている安らぎを感じながら生きるということが浄土真宗のみ教えに生きるということでありました。

 

合掌


誓林寺
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2020年11月26日木曜日

報恩講のご法話

 



 誓林寺の報恩講のご法話を、YouTubeで期間限定(12月31日まで)で公開いたします。

コロナの影響で、ご参拝をご遠慮された方。ご案内の通り半日のお参りをしてくださり、もう半日のご法話がお聴聞できなかった方。もう一度お聴聞したい方。何回でも見ていただけますので、この機会にぜひお聴聞いただきたいと思います。

 YouTubeの公開方法が限定公開にしてあるので、YouTube内で検索をかけても出てきません。下記の画面、あるいはリンクをクリックすればYouTubeの画面を開くことができますので、こちらをご利用ください。


午前の部

https://youtu.be/65YxjVJWeEE




午後の部

https://youtu.be/-i43Rg2gVx4






誓林寺
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2020年11月21日土曜日

報恩講のご案内




 報恩講のご案内です。

明日11月22日()

10時~  (長沢町外の方)

13時半~ (長沢町内の方)

より誓林寺の報恩講をお勤めいたします。

お勤めは午前中がお正信偈(草譜)その後『御俗姓』

    午後はお正信偈(行譜)その後『御伝鈔』です。


ご講師は、福井県の髙務哲量(たかつかさ てつりょう)先生です。

コロナ感染拡大の影響により、参拝をお控えになる方のために、後日髙務先生の

ご法話を YouTube に期間限定でアップいたします。

YouTubeのURLはまたこの「誓林寺だより」にてご案内いたします。


できるかぎりの感染対策をしながらお勤めさせていただきます。

換気をしながらの法要になりますので、お越しの際は暖かくできる格好でお参りください。


誓林寺

豊川市長沢町下市3

0533‐87‐3305


2020年10月28日水曜日

2020年10月の掲示板




 境内の桜の葉はほぼ落ち切り、代わりにイチョウの木がしっかりと葉を蓄え黄葉の準備をしています。来月の報恩講の頃にはまっ黄色に染まりそうです。いよいよ秋が深まりつつある中、日暮れもどんどん早くなってきています。しかし、その分夜の静かな時間が増え、晴れていれば星がいつもに増して輝いているように見えます。秋の夜長、澄んだ空に瞬く星に心落ち着かせながら過ごして参りたいと思います。


 さて、今月の掲示板の言葉は、童話作家の工藤直子さんが『のはらうたⅢ』という本で紹介してくださった野原に棲むふくろうさんの詩を書かせてもらいました。太陽が沈み、暗いはずの夜空には、日中には全く見えなかった無数の星たちがまばゆく輝いていました。そんな景色を見たときに、ふくろうさんはとても大切なことに気が付いてくれました。それは、星が「ひかるためには くらやみもひつようだ」ということ。つまり、明るくては見えてこない世界もあるということでした。


 私たちの周りには、明るいと見えてこないものが他にもあるように思います。たとえば、ホタルの光や花火などもその1つとしてあげられそうです。このような、明るくなればなるほど逆に見えなくなるという現象は、実はモノだけではなく、心の問題についても言えそうです。たとえば、腹が立っているとき、「自分が正しい」という思いが大きく(明るく)なればなるほど相手の思いが見えなくなっていきます。あるいは、「金に目がくらむ」という言葉があるように、欲が暴走すると、大事なものがどんどん見えなくなってしまいます。いずれも、そこには「私の思い」が先行している姿があります。


 このように、怒りや欲、そして「私の思い」は大きく(明るく)なればなるほど大事なものを見えなくしてしまいます。それゆえ、仏教ではこの3つを大事なものを見えなくする3つの毒という意味で「三毒の煩悩」と呼びます。


 そして、「私の思い」が強いほど見えなくなる大事なものの1つに阿弥陀さまのみ教えがありました。阿弥陀さまのみ教えは、「あなたのいのち、お浄土に生まれ仏となるいのちに仕上げたから、どうか「南無阿弥陀仏」とお念仏を称(とな)えながら生きてきておくれ」という阿弥陀さまの仰せをそのまま聞き受け、お浄土に生まれ仏となるいのちとしてお念仏申しながら生きるというものです。ここに「なぜ?」とか「本当に?」という「私の思い」が差し挟まると、途端に阿弥陀さまのお心が見えなくなってしまいます。 


 けれども逆に、「私の思い」を少し横に置き(暗くして)、阿弥陀さまの仰せをそのまま聞かせていただくとき、夜空の星の光のように、阿弥陀さまのお心が私の心に届いてくださるのです。そして、この届いてくださる光は、不安や悲しみに沈み心暗くなったその時にこそ、私の心をあたたかく照らす光となって、私のいのちを支えてくださるのです。


   「 みあげれば よぞらのほしが 

     まつりのようにまぶしい

     ああ ひかるためには 

     くらやみもひつようだ  」

   

 「私の思い」が先行するあまり、真実に暗く大切なものを見失いがちな私。その私にこそ届いてくださる阿弥陀さまのみ教えという光に照らされながら、このいのちを大切に生かさせていただきたいと思います。

 

合掌


誓林寺
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2020年9月30日水曜日

2020年9月の掲示板

 


 9月に入ったなと思っていたら、あっという間にお彼岸の時季を過ぎ、日が沈むのもすっかり早くなってきました。暑さも落ち着き過ごしやすくなって、いろんなことをしたくなってくる季節です。みなさんは、スポーツの秋、読書の秋、味覚の秋、どんな秋にされるでしょうか。これから秋が深まるにつれ寒暖差も大きくなってきますので、体調管理をしっかりとしながら秋を満喫していきたいと思います。

 さて、今月の掲示板の言葉は、江戸後期から明治にかけて活躍された浄土真宗の学僧である足利義山(1824‐1910)先生のおうたを書かせてもらいました。言葉自体は難しくはありませんが、省略されている言葉を補わないと何をあらわさんとしてくださっているのか分かりにくいところもあるかと思いますので、言葉を補いながらこのおうたを味わってみたいと思います。

 「ゆくさき」とは、私たちのいのちの行く先のことです。私のいのちがどこに向かっているのか、つまり、「なんのために生まれてきたのか」という私のいのちの意味と言い換えてもいいのかもしれません。しかし、私はと言えば、気が付いたときにはすでにこの世に生を享(う)け、生まれたままに日々を重ねてきました。つまり、わがいのちでありながら、どこから生まれてきてどこに向かって生きていくかも分からずに生きてきました。そんな私に向かって阿弥陀さまは、「南無阿弥陀仏」のお念仏の声となって「あなたのいのちはお浄土というさとりの世界に向かうべくして生まれてきたんだよ。」と告げてくださいます。

 このお念仏に出遇い、阿弥陀さまの仰せをそのまま受け止めることができるいのちへとお育ていただいたとき、私は「お浄土というさとりの世界に向かういのちを生きているんだ」と自覚をしながら人生を歩むことができます。そのことを足利先生は、「ゆくさきは たのむ初めにさだまりし」と詠んでくださいました。ちなみに、おうたに「たのむ初めに」という言葉が出てきますが、この「たのむ」というのは「お願いする」という意味ではなく、ここでは、「仰せの通りに受け止める」という意味です。つまり、私が阿弥陀さまに「お願いした」からお浄土へ生まれるいのちになったのではなく、阿弥陀さまが告げてくださる言葉に出遇い、その言葉を「受け止めた」ときに、「お浄土に生まれるいのちである」と知らされていくのです。

 私たちにとって一番辛いことは、自分が何のために生まれてきたのかも分からないままむなしくいのちを終えていくことでありました。そんな中で、阿弥陀さまに出遇い、いのちのゆくさきが定まるということは、私のいのちがただ無駄に終わっていくようないのちではなくなるということです。これは何にも代えがたいよろこびであり、そのよろこびを、感謝を阿弥陀さまに伝えていく言葉、それもまた「南無阿弥陀仏」のお念仏でありました。


  「 ゆくさきは たのむ初めにさだまりし

    そのうれしさを 口にとなえる   」


 「南無阿弥陀仏」のお念仏から阿弥陀さまの仰せを聞き、その仰せを聞いて「阿弥陀さま、ありがとうございます」とまた「南無阿弥陀仏」とお念仏を申す。そんな風に「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお念仏を申しながらこの人生を「お浄土へ向かういのち」として歩ませていただく。それが浄土真宗というみ教えが示してくださる仏道でありました。


称名


誓林寺
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2020年8月31日月曜日

2020年8月の掲示板

 


 長い梅雨が明けると一気に真夏に突入し今年も暑い夏となりました。お盆が過ぎ、空を見上げればうろこ雲がたなびき、夕方になれば秋を告げる虫たちが鳴くようになってきました。また、長沢村では田んぼの稲刈りも始まりました。夏の余韻はもう少し続きそうですが、来る秋の気配を楽しみながら過ごして参りたいと思います。

 さて、今月の掲示板の言葉は、カナダの小説家モンゴメリ(1874-1942)の代表作『赤毛のアン』から書かせてもらいました。この『赤毛のアン』という物語は、孤児院にいた主人公のアンが、マシュウ(兄)とマリラ(妹)という独身の兄妹のもとに引き取られ、2人の大きな愛に包まれながら成長していく姿を綴った物語です。

 掲示板の言葉は、孤児院からやってきたアンを引き取るかどうかをマシュウとマリラが話し合っている場面の言葉です。マリラがとても消極的な発言をしているのは、実は、2人は孤児院から男の子を迎える予定だったからです。けれども、手違いで女の子のアンが来てしまったので、このような言い方になっているわけです。

 一方、子どもを駅まで迎えに行ったマシュウは、マリラよりも一足先にアンに出会います。マシュウも男の子が来ると思っていましたから最初は戸惑いますが、家に向かいながらアンと話すうちにアンという子の魅力に惹かれ、アンを追い返さず迎えることを密かに決心します。その決意が、マリラとの会話の中で「わしらのほうであの子になにか役にたつかもしれんよ」という言葉となって出てくるのです。

 「この子のいのちはわたしが預かるんだ」という覚悟ができたとき、その子を見つめる思いは、「役に立つかどうか」ではなく「この子のために私にはなにができるのか」という思いへと変わっていくのでしょう。マシュウの発言は、まさに「アンの親になる」という宣言でもありました。そして、このマシュウの姿は、阿弥陀さまのお慈悲のはたらきに通じるように思います。

 阿弥陀さまは、苦悩の中を生きる私の姿を見て「あなたのいのちはわたしが預かり、その苦しみはわたしが必ず取り除いてみせる」という決心をしてくださいました。これは阿弥陀さまの「あなたのいのちの親になる」という宣言でありました。この宣言を私に向かってしてくださったとき、私は何かの見返りを求められることなく、ただ阿弥陀さまのかぎりないお慈悲のぬくもりによって育てられる「仏の子」という存在になったのです。


  「あの子がわたしらに 何の役にたつというんです?」

  「わしらのほうであの子になにか役にたつかもしれんよ」


 マシュウの、そして後にはマリラの親としてのぬくもりにアンが触れていくとき、この2人がアンにとってかけがえのない心の拠(よ)りどころになっていったように、どんな私であっても決して見捨てず支えてくださる阿弥陀さまの「いのちの親」としてのぬくもりに触れていくとき、私たちは本当の心の拠りどころに出遇っていくことができるのでしょう。


 合掌


誓林寺
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2020年7月31日金曜日

2020年7月の掲示板




 8月も間近だというのにまだ梅雨明けが来ず、今年は長い梅雨となりました。全国各地の豪雨によって被災されている方々に心からお見舞い申し上げます。しばらく落ち着いていたかに見えた新型コロナウイルスの感染者数も再び増え始め、予断を許さない状況になりつつあります。度重なる災難に不安が募り、心暗くなることが多いですが、このような時だからこそ、本当の心の灯(=よりどころ)となるおみ法(のり)をともにお聞かせいただきながら過ごして参りたいと思います。

 さて、今月の掲示板の言葉は、BUMP OF CHICKEN(バンプ オブ チキン)というバンドの『supernova(スーパーノヴァ)』という曲の歌詞を書かせてもらいました。とてもストレートな歌詞なので内容についての解説は要らないと思いますが、歌詞の通り、私たちは得てして”失ったときに初めて気付く”ということが多くあるように思います。

 体があるということも、熱が出て不自由になったときになってやっと気付き、当たり前のように息をしていることも、鼻が詰まって息がしづらくなってやっと今まで息をしていたことに気付けます。当たり前の日常がどれほどに有難いことなのかということも、新型コロナウイルスによって当たり前の日常が奪われて初めて気付けたように思います。しかしながら、日常が少し取り戻せてしまうと、また「当たり前」に埋もれてしまう私がここにいます。

 親や友人、パートナーの大切さは日々感じていますが、しかしそれさえも、いつも側に居てくれる「当たり前」にかまけてしまって大切にできないことがたくさんあります。大切な人が、自分にとってどれだけ大きな存在なのかは、失くしたときになってやっと実感できるのかもしれません。

 このように、私たちは失わないと気付けないことがたくさんあります。中には「失ったからこそ気付けて良かった」ということもあるでしょう。けれども、失ってからでは遅いものもあります。それは、私の人生です。私の人生がどれだけ大事な人生であったのかということが、いのち終わった後にならなければ分からないのであれば、私たちは一生自分のいのちの意味が分からないまま生きていかなければならなくなってしまいます。

 そうはさせまいと立ち上がってくださったのが「南無阿弥陀仏」の仏さまでありました。阿弥陀さまは、大事なことを見失ってばかりのこの私に、いのちの意味までも見失わせてなるものかと「南無阿弥陀仏」のお念仏となって私のもとにいたり届いてくださり、「あなたのいのち、いつどこでどんな風に終えようとも、必ずお浄土に生まれ仏となる身に私が仕上げたから、どうかそのいのち、仏さまになる尊い人生として歩んでおくれ。」と喚びかけてくださいます。

 失わなければなかなか大事なことに気付けない私ですが、失わなくても気付けることがありました。それは、私の口に「南無阿弥陀仏」とお念仏が出てくださっているということです。お念仏が出てくださっているということは、私のこのいのちは、いつどこでどんな風に終えようとも阿弥陀さまによって必ず仏さまにならせていただく尊いいのちであるということです。
  
 「 熱が出たりすると気付くんだ 僕にも体があるって事
   鼻が詰まったりすると解るんだ 今まで呼吸をしていた事 」

けれども、  

 「 お念仏が出ると わかるんだ
   このいのち 決してむなしく終わらないということ 」


 目まぐるしく変わる日常に、大事なことを見失いながらしか生きられない私たちですが、私のいのちの意味という一番大切なものだけは見失わないように、阿弥陀さまのお喚び声、「南無阿弥陀仏」のお念仏をわが口に称え耳に聞きながら過ごして参りたいと思います。

称名


2020年6月29日月曜日

2020年6月の掲示場



 最近梅雨らしからぬ局地的な大雨が各地で降っており、この辺りでも夕立かなと思うくらい激しい雨が降ることもありますが、梅雨らしい優しい雨が降る日もあります。そんな日に耳をすませば、カエルたちが嬉しそうにその雨の始まりを告げてくれます。その声に呼ばれるように玄関を出ると、境内のアジサイが本当に嬉しそうに咲いている姿に出会うことができます。本格的な夏を迎えるまで、あともう少し梅雨らしさを味わいながら過ごしてまいりたいと思います。

 さて、今月の掲示板の言葉は、詩人の阪田寛夫さん(1925‐2005)の「おおきくなあれ」という題のうたを書かせてもらいました。児童文学も手掛けておられる阪田寛夫さんらしいとても可愛らしいうたです。もちろん、実際に雨がブドウに入ってブドウを大きくするわけではありません。けれども、このうたには「さもありなん」と思わせるような不思議な響きがあります。
 
 このうたを読んでいると、『仏説無量寿経』に出てくる「澍法雨(じゅほうう)」というお言葉が浮かんできます。このお言葉は「法雨を澍(そそ)ぐ」と読むように、私たちに届けられてある「おみ法(のり)」を雨にたとえられた言葉です。

 雨は、分け隔てなくすべてのものに平等に降り注ぎ、潤いを与えいのちを育んでいくように、おみ法も分け隔てなくあらゆるいのちに降り注ぎ、そのいのちに潤いを与え人生を充実したものへと育んでくださいます。

 自然の雨は、私たちの体に直接入ってくることはありませんが、おみ法の雨は、私たちの心に直接染み入ってくださいます。そのおみ法が私たちの心に直接染み入ってくださっている具体的なすがたが、私たちの口に出てくださる「南無阿弥陀仏」というお念仏でありました。

 このお念仏のお心をお尋ねすれば、「あなたをひと時も離れずあなたのいのちを支えている仏がここにおりますよ」という阿弥陀さまからのメッセージでした。この阿弥陀さまのあたたかい心に触れていくとき、苦しみや悲しみの孤独によって乾いて凝り固まった心が少しずつ少しずつあたためられ潤いを得てほぐされていくのでしょう。そして、心がほぐされていくとき、苦しみや悲しみも私の人生を充実させる大事な意味を持ったものとして変えなされていくのでした。

 そんなこころを私なりにアレンジしてこのうたを詠むならば

  「 あめの つぶつぶ
    わたしに はいれ
    じわり じわり ほろり
    じわり じわり ほろり
    しみわたれ
    あたたまれ  」

ということになるでしょうか。

 梅雨は年に1度この期間だけですが、おみ法の雨は1年365日いつでもどこでも私の上に降りしきっています。雨に濡れるのは嫌ですが、おみ法の雨にはしっかりと濡れていただいて、お互いさまに潤いのある人生を歩ませていただきたいと思います。

合掌


2020年5月23日土曜日

2020年5月の掲示板



 毎年「こどもの日」頃に立夏を迎えると、季節が春を極め夏に向かって動き出しますが、最近は本当に太陽の陽射しが夏めいてきました。ちなみに、原稿を書き出した本日5月21日は、すでに二十四節気の中の「小満」になっているそうですから、また一つ夏へと季節が進んでいます。どうりで冷たい飲み物が美味しいわけです。日本における新型コロナウイルス感染症の拡大も一旦の落ち着きが見えてきました。この状況も少しずつ前に進んでいるようです。けれども、依然として感染のリスクはありますから、お互いさまにできる範囲の対策をしながら過ごして参りたいと思います。

 さて、今月の掲示板の言葉は、以前にも掲示板で紹介したことがある大阪の仏教詩人、榎本栄一さん(1903-1998)の『求道』という題の詩を書かせてもらいました。
 「自分免許」とは、『大辞泉』には「他人は認めていないのに、自分だけが得意になっていること。ひとりよがり。」と説明されています。この「自分免許は あぶない」という言葉は、どの場面にも当てはまりそうですが、この詩の題が『求道』であることを踏まえると、ここではみ教えの受け止め、つまり「ご信心」について言われているのでしょう。
 
 「ご信心」とは、「あなたを必ず仏としてお浄土に迎えるから、どうかその人生「南無阿弥陀仏」とお念仏申し、わが声を聞きながら生きてきておくれ。」という阿弥陀さまの仰せを素直に聞き受け、仏さまにならせていただく身(仏の子)としてお念仏申しながら生活することです。浄土真宗のみ教えはこれに尽きると言ってもいいほどです。それゆえに、蓮如上人は『御文章』で、「聖人(親鸞聖人)一流の御勧化(ごかんけ)のおもむきは、信心をもつて本とせられ候(そうろ)ふ。」とまで言われています。

 「阿弥陀さまの言われた通りにする」というこの上なくシンプルなことですが、自分の頭で納得できないと気が済まない私は、自分の常識にはない阿弥陀さまの仰せに対して「本当にこれだけでいいんだろうか」とか、「本当に仏さまにならせていただけるんだろうか」などとかえって私の方で難しくしてしまいます。あるいは逆に、「こうに違いない」と自分の常識に当てはめて仰せを聞き損なったりしてしまいます。だからこそ親鸞聖人は、「阿弥陀さまの仰せに対しては自分の思いを差しはさんではいけないんだ」とお示しになられます。そのことを表現してくださったのが「自分免許は あぶない」という言葉なのでしょう。

 では、自分免許にならないために「これでよろしいか」と見てもらう「よき人」とは誰のことなのでしょうか?一番身近な存在で言えば、浄土真宗のみ教えを間違いのないように取り次いでくださる先生やお坊さん、あるいはお聴聞を重ね続けてくださったご門徒さんになるのでしょう。しかし、もっと突き詰めて言えば、その「よき人」とは他の誰でもない阿弥陀さまのことでありました。
 
 阿弥陀さまにお尋ねするということは、つまり、「南無阿弥陀仏」とお念仏申すことです。「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えれば、阿弥陀さまはどんなときでも「あなたを決して見捨てず必ず仏にするんだ」と私に言い続けてくださいます。それでも疑う私にも阿弥陀さまは、「分からんあなたを分からんままにお念仏を通して「あぁ、そうでありましたか」と頷くことができる身に育てあげる」と仰ってくださっています。ですから、「これでいいんだろうか」と思ったときは、分からないままに「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」とお念仏を称えながら、阿弥陀さまに直接お尋ねさせていただきたいと思います。

 気を抜けば、すぐに「自分免許」が出てしまう私。そんな私であるからこそ、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称え阿弥陀さまにご相談をしながら、仏さまにならせていただくいのちを生かさせていただきたいと思います。

称名


誓林寺
http://seirinji.main.jp

2020年4月22日水曜日

2020年4月の掲示板




 境内の桜の花も散り、今やすっかり葉桜になりました。周りを見渡すと、木々の新芽がまぶしく、早くも初夏の様相を呈してきました。自然はますます鮮やかに色濃く華やいでいく一方で、新型コロナウイルスの収束はいよいよ見通しがきかなくなってきました。先が見えない不安は日に日に大きくなっていきますが、焦らず、今の状況で自分にできることをできるだけ勤めさせていただきたいと思います。

 さて、今月の掲示板の言葉は、シンガーソングライターの秦基博さんの『花』という曲の歌詞からいただきました。小さなものから大きなものまで、多種多様な花が次々に咲いては散っていくこの季節にこの歌詞を口ずさむと、なんとも言えない思いが胸に押し寄せてきます。この歌詞は、舗道に咲く小さな花の目線で語られたものですが、その花に自分自身も重ねていくことができます。「私はなんのためにこの世に生まれてきたのか?」これは、「意味」を求めずには生きられない私たちにとって一番大きな問題です。

 この歌では、「君に逢うために生まれてきたんだ」と、「であい」の中に私のいのちが恵まれた「意味」を見つけていきます。考えてみますと、私たちの人生というのは「であい」によってできていると言っても過言ではないのかもしれません。いろんな人との「であい」もあれば、もう二度とこんなことには「であい」たくないというツラく悲しい出来事との「であい」、逆に、嬉しさに飛び上がってしまいそうになる「であい」までさまざまです。そんなたくさんの「であい」の中で、「私はこれに「であう」ために生まれてきんだ」と言い切っていくことのできることが何よりの「幸せ」なのかもしれません。

 人によって、それが、家族であり、友達であり、恋人であり、先生であり、人生を決める大きな出来事であったりといろいろあると思いますし、一つに限らなくてもいいのだと思います。そんな「であい」があればあるほど、私がこの世に生まれてきた「意味」が深まっていくのでしょう。

 そんな私の人生を彩る多くの「であい」の中で、もっとも尊い「であい」があるんだと宗祖親鸞聖人さまはお示しくださいました。その「であい」こそ、阿弥陀さまとの「であい」でありました。阿弥陀さまと「であう」ということは、お念仏申しながら過ごすということです。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお念仏を称えながら生きるこの人生は、つまり、阿弥陀さまの智慧の光に照らされながら生きるこの人生は、どの瞬間を切り取っても、そこに「大切な意味」を見出していくことのできる人生でした。

 私たちの根源的な苦しみとなる「生老病死」という4つの現実も、阿弥陀さまに「であう」とき、「老い」て年を重ねる時間は、お育てを賜る時間へ。「病い」は、いのちと向き合うご縁に。そして、「死」して散りゆくことさえも、仏さまにならせていただくご縁として「意味付け」られていくのでありました。

  「 何のために 咲いてるのか
    何のために 色づくのか
    何のために 散りゆくのか
    君に逢うために 生まれたんだ 」

 お念仏を称える中に阿弥陀さまからいろんなお育てを賜り、ツラいことや悲しいことにも「大切な意味」が与えられていくとき、「私は、阿弥陀さまに出遇うために生まれてきたんだ」と言い切っていくことのできる世界が開かれていくのでしょう。そして、そんな世界が開かれていくことがなにより「幸せ」なことでありました。
 いいことばかりではありませんが、一つひとつの「であい」を大切にしながら過ごして参りたいと思います。

合掌

誓林寺
http://seirinji.main.jp

2020年3月24日火曜日

2020年3月の掲示板



 3月になり季節がやっと気温に追いついたような気がします。しかし、この冬が暖冬だったからといって例年よりも日没が遅いわけでもなくいつも通りでしたが、最近ではすっかり日も長くなって、いつの間にか春分を迎えています。桜も咲き始めいよいよ春満開ですが、新型コロナウイルスの影響で、いつもより少し静かな春になりそうです。とはいえ、「春」がなくなるわけではありませんので、それぞれに「春」の芽吹きの力を感じながら、この状況をご一緒に乗り越えていきたいと思います。

 さて、今月の掲示板のお言葉は、春分を迎える月ということで、お彼岸にちなんだお浄土を偲ぶおうたを紹介させていただきました。このおうたは、本山の御正忌報恩講(親鸞聖人のご命日法要 1月9日~16日)に際して毎年ご門徒のみなさまから募集される「御法楽献詠(ごほうらくけんえい)」に入選したおうたのひとつです。「法楽」とは、おみ法(のり)に出遇えたよろこびのことで、そのよろこびを親鸞聖人のご廟所(びょうしょ(お墓))に献供(けんぐ)するために詠まれたうただから「献詠」といいます。

 「あかね雲」とは、朝日や夕日に照らされて赤く染まった雲のことですが、ここでは「夕日」に照らされた雲を指します。日が傾き雲が茜色に輝き出すと、鳥たちは巣へと帰っていきます。実は、この鳥が巣に帰る様子が「西」という漢字のもとになったそうですが、では私たちの「いのち」はどこに帰っていくのでしょうか?
 『仏説阿弥陀経』にはこのようなご文が出てきます。

  「これより西方に、十万憶の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。
   その土に仏まします。阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ。」

 お釈迦さまはお経を説く中で、阿弥陀さまのお浄土は日が沈みゆく「西」の方向にあるのだとお示しくださいました。さきに触れましたように、「西」という漢字には「帰っていくところ」というニュアンスが含まれていることを踏まえますと、「西」にあるお浄土とは、私たちの「いのち」が帰っていくところ、と受け止めさせていただくことができます。

 では、私たちにとって「帰る」ことができる場所とはどのようなところなのでしょうか?いろんな言い方があるかもしれませんが、その特徴のひとつとして「飾らずにいられる場所」と言えるかもしれません。「帰る」場所以外は、ある程度身や心を整えて行かなければなりませんが、「帰る」ところはどれだけ汚れていようが構いません。いや、むしろ「帰る」ところには汚れたりボロボロになって行くことの方が多いかもしれません。けれども、汚れたりボロボロになったままでも「帰る」ことができるのは、そのままの私を迎えてくれる存在があるからでした。

 私たちがお浄土という世界をいただくということは、そして阿弥陀さまという仏さまに出遇わせていただくということは、飾らずとも私のままを受け止めていただける世界をいただくということでありました。その世界は、お浄土に往(い)って初めていただく世界ではありません。私のことをそのまま受け止めてくださる阿弥陀さまが、「南無阿弥陀仏」というお念仏となって私の口に出てくださる「今」「ここ」にその世界をいただいていくのでした。

 なればこそ、日常の悲しみやつまずきもお念仏いただく「今」「ここ」で阿弥陀さまに受け止めていただくのです。そしてまた、そのお念仏いただく人生が、たとえツラいことや悲しいこと、後悔がたくさんあった人生だったとしても、その人生まるごとが受け止められていくからこそ、私たちはお浄土に飾らず「帰って」いくことができるのでした。

 日に日にぬくもりを増す夕日の先にお浄土を偲びながら過ごして参りたいと思います。

合掌

誓林寺
http://seirinji.main.jp

2020年2月29日土曜日

【重要】3月の法座案内



 新型コロナウイルスの感染症の被害が拡大している状況を受け、以下の法座・行事を
延期・中止とする対応を取らせていただきます。

   ・一日の会          3月  1日(日) 中止
   ・墓地清掃          3月14日(土) 中止
   ・お正信偈の会    3月15日(日) 中止
    ※3月の祥月命日の方のお勤めは次回(4月12日(日)予定)に
            併せてさせていただきますのでご了承ください。
   ・春季彼岸会       3月20日(金) 中止
   ・長沢仏教婦人会 3月31日(火) 延期

 ただし、個別の法事等は引き続き対応させていただきます。また、お彼岸のお勤めも
個人的に頼んでくださればお参りさせていただきますのでご相談ください。
 4月以降は状況を確認しながら追って連絡いたします。

誓林寺
0533-87-3305

2020年2月23日日曜日

2020年2月の掲示板



 2月とは思えないような暖かい日があるかと思えば、やはり今は冬だったんだなと知らされる寒い日もあり、身体がなかなかついていきません。しかし、外を見れば梅の花はもうピークを過ぎかけ、境内の草も次々生え始めています。季節は着実に春に向かって流れているようです。一方世間では、新型コロナウイルスが猛威をふるっています。事態が早く収束することを願いつつ体調には十分気を付けながら過ごして参りたいと思います。

 さて、今月の掲示板のお言葉は、明治から昭和にかけて活躍された精神科医であり歌人でもある斎藤茂吉(さいとう もきち)さん(1882‐1953)のおうたからいただきました。
 「あかつき」とは、『デジタル大辞泉』には「太陽の昇る前のほの暗いころ。」とありますので夜明け前のことを言います。なので、詩でも「まだくらきより」と言われているのでしょう。そして、「御名(みな)」とは「南無阿弥陀仏」のお名号のことです。

 この詩を読むと、目覚めとともにお念仏を称(とな)えながら、厳かで澄んだ朝を迎えようとしている作者の姿が思われます。また、斎藤茂吉さんが、御名を称える「息」が尊いと詠んでくださったことで、お念仏の声が自然と聞こえてくるような気がします。

 ではなぜ作者は、「出で入る息」が尊いと言われたのでしょうか?いろんな読み方ができると思いますが、私は、お念仏の息そのものが阿弥陀さまだからであると味わわせていただきました。
 親鸞聖人はご本典『教行証文類(きょうぎょうしょうもんるい)』の中で、中国の元照律師(がんじょうりっし)のお言葉を引いて次のように示されています。

 「いわんや我が弥陀は名をもって物を接したまう。
  ここをもって耳に聞き口に誦(じゅ)するに、
  無辺の聖徳(しょうとく)識心(しきしん)に
  攬入(らんにゅう)す。」

 つまり、阿弥陀さまは「南無阿弥陀仏」という御名(名号)となって私の心と体に入り満ちることで私を救ってくださる仏さまでありました。ですから、お念仏は私の体に入り満ちた阿弥陀さまが「南無阿弥陀仏」の声となって出てくださっている姿でありました。このお念仏によって私の耳に「南無阿弥陀仏」と聞こえてくださるからこそ、阿弥陀さまの「あなたを決して見捨てない阿弥陀という仏がここにいますよ。」のメッセージが私の心に響いてくださるのでした。

  「 あかつきの
    まだくらきより
    御名となふる
    出で入る息ぞ
    尊かりける 」

 まだまだ寒い朝。1日のはじめに白い息となりながら出てくださるお念仏に、阿弥陀さまのあたたかいお心を感じながら過ごして参りたいと思います。

称名

誓林寺

2020年1月31日金曜日

2020年1月の掲示板



 新年を迎えました。気が付けばもう令和も2年になりました。今冬は暖冬になり、おかげさまでいつもより過ごしやすい日々になっていますが、スキー場や雪まつりなど冬ならではの行事が雪不足で困っておられるそうですね。雪解け水も少なくなりそうですから、春夏の水不足も心配されます。何事もすべての人にとって都合の良いものはなかなかないのかもしれません。コロナウイルスも心配されます。くれぐれも体調には気を付けて参りたいと思います。

 さて、今月の掲示板の言葉は、『2020年 ほのぼのカレンダー』よりいただきました。更新の時期が大幅に遅れたので2月のお言葉から引用させていただきました。言葉の意味は説明しなくても分かるのではないのかなと思いますが、そのお心を少し味わわせていただきたいと思います。

 宗祖親鸞聖人は、お念仏を「本願招喚(ほんがんしょうかん)の勅命(ちょくめい)なり」とお示しくださいました。つまり、お念仏は私が称(とな)えるものだけれども、実は、お念仏を称えている姿はそのまま阿弥陀さまに呼ばれている姿なんだよということです。

 私はいつ親のことを「お父さん」「お母さん」と呼べるようになったかは分かりませんが、なぜ「お父さん」「お母さん」と呼べるようになったかはハッキリ分かります。それは、親が私に向かって「お父さん・お母さんだよ」と呼び続けてくれたからでした。
 親は呼んでほしい名で子どもに呼びかけることでその子に親であることを告げ、子どもは、その親の名告(の)りを聞いて初めて親を親として呼ぶことができるのでした。

 「南無阿弥陀仏」というお念仏も同じでした。「あなたのことを決して見捨てない、いのちの親がここに居るぞ」という阿弥陀さまの名告りのお呼び声が「南無阿弥陀仏」でした。このお念仏が私の口から出てくださるからこそ、私たちは、阿弥陀さまがいのちの親であることを知らせていただき、また、このいのちの親さまを「南無阿弥陀仏」と呼ばせてもらうことができるのです。そのことを実家の父は、

  「 南無阿弥陀仏で 親を知り
    南無阿弥陀仏の 親に遇(あ)い
    南無阿弥陀仏と 二人連れ 」

 と詠んでいました。いつどこにいても「決して独りにはさせない」と呼び続けてくださる阿弥陀さまとご一緒の人生をともに歩ませていただきたいと思います。

称名

誓林寺
http://seirinji.main.jp