2021年12月31日金曜日

2021年12月の掲示板

 


 2021年もいろいろとありましたが、いよいよ新年を迎えようとしています。12月に入り一段と寒くなり、長沢でも久しぶりに雪を見ました。各地でも大雪が降っているようです。どうか大きな被害が出ないことを願うばかりです。法味豊かな2022年を迎えることができるように今年最後の月もお念仏にお育てをいただきながら過ごしてまいりたいと思います。


 さて、2021年最後の掲示板の言葉は、鈴木 章子(あやこ)さん(1941‐1988)の『癌(がん)告知のあとで』という本の中で紹介された詩の言葉を書かせていただきました。鈴木さんは43歳の時にガンが見つかり闘病生活を送る中で、阿弥陀さまのおはたらきを支えとし、真正面からガンと向き合いながら47年の人生を生き抜いていかれました。この度の詩はその中でも、鈴木さんの人生最後の詩となったもので、その身を、その人生を通して味わってくださったおみ法(のり)のおこころを実感のこもった言葉で紡(つむ)いでくださったものです。


 詩の中に「念仏」と出てきますが、宗祖親鸞聖人はこの「念仏」のことを「智慧の念仏」とお示しくださいます。「智慧の念仏」とはつまり、お念仏(「南無阿弥陀仏」と称(とな)えること)は呪文でもなく、こちらから阿弥陀さまにお願いするためのものでもなく、阿弥陀さまの智慧の光にこのいのちを照らされることなのだとお示しくださったのです。では、阿弥陀さまの智慧の光にいのちを照らされるとはどのようなことなのでしょうか?


 私たちは、この身に起こってくる様々なことを、自分の価値観というフィルターを通して受け止めていきます。たとえば、自分にとって嬉しいことは「いい事」として、自分にとってつまらないことは「わるい事」として受け止めていきます。そして、この私は「いい事」はすぐに受け止めることができますが、「わるい事」はなかなか受け止めることができません。それゆえ、私は「わるい事」からついつい目を逸(そ)らしがちになってしまいます。


 けれども、どれだけ目を逸らしたくても逸らせないものがあります。それが、この私自身のいのちでありました。私たちは自分のいのちを離れては生きてはいけません。それゆえ、この身において「わるい事」が起こった時、目を逸らせども逸らせども自分にとって都合の「わるい」自分の姿が見えてきます。そうなると、せっかくの大切な自分のいのちを嘆きながら生きていかなければなりません。


 そんな私のいのちのあり様を阿弥陀さまが見抜いてくださったからこそ、阿弥陀さまは「智慧の念仏」となって私のいのちに「南無阿弥陀仏」と届いてくださったのです。このお念仏の智慧の光に照らされるとき、自分の都合によって見えなくなってしまっていた大事なものに気がつかされていきます。そして、大事なことに気がつかされたとき、「わるい事」が「いい事」になることはなかなかありませんが、「意味のある事」に変えられていきます。「わるい事」が「意味のある事」だと知らされたとき、初めてその事実と向き合い受け止めていくことができるのでしょう。


 鈴木さんもガンというなかなか受け止め難い現実に対して、お念仏のお育てに遇(あ)う中で、ガンとも真正面から向き合い受け止めて、自分の人生に「納得」しながらその人生を精一杯生き抜いていかれたのでしょう。だからこそ、 


  「 念仏は 私にただ今の身を

    納得していただいていく力を

    与えてくださる 」


と詠んでくださったのでありました。自分ひとりでは受け止めきれないことが起こってくるこの人生だからこそ、お念仏の光に照らされ、誰にも代わってもらえないこの人生を私自身が「納得」させてもらいながら、「ありがたい人生であった」と言えるように過ごしてまいりたいと思います。


称名


誓林寺
http://seirinji.main.jp


2021年12月7日火曜日

2021年 誓林寺報恩講のご法話

 



 誓林寺の報恩講のご法話を、YouTubeで期間限定(2022年2月28日まで)で公開いたします。

 コロナの影響で、ご参拝をご遠慮された方。ご案内の通り半日のお参りをしてくださり、もう半日のご法話がお聴聞できなかった方。もう一度お聴聞したい方。何回でも見ていただけますので、この機会にぜひお聴聞いただきたいと思います。(※反射で大竹先生のお顔が見えづらくなっています。)

 YouTubeの公開方法が限定公開にしてあるので、YouTube内で検索をかけても出てきません。下記の画面、あるいはリンクをクリックすればYouTubeの画面を開くことができますので、こちらをご利用ください。


午前の部

https://youtu.be/mWLyDfLwAyk


午後の部











2021年11月30日火曜日

2021年11月の掲示板




  「秋の日はつるべ落とし」とは本当にその通りで、気が付けばあっという間に日が落ちてしまうようになりました。そして日が経つにつれ朝晩の冷え込み方はますます厳しくなり、季節はもうすっかり冬になろうとしています。今月が終わればいよいよ今年もあとひと月となります。昨年に続き今年も新型コロナウイルスの影響を大きく受けた年になりました。新たな変異株も心配ですが、そんな中でもできることを自分なりに精一杯やっていきたいと思います。


 さて、今月の掲示板の言葉は、私が好きな「ハンバートハンバート」というアーティストの『ぼくらの魔法』という曲のサビの歌詞を書かせてもらいました。この歌詞自体は直接阿弥陀さまのみ教えのお心を表すものではありませんが、しかし、この歌詞の中にみ教えに通ずるものがあるように思います。今回はそんなところを少し味わってみたいと思います。


 私たちは「言葉」なくしては生きていくことができません。それほどまでに大事なもの、それが言葉です。しかし、言葉が万能かというとそうでもありませんでした。どれだけ大きな思いがあっても言葉にすれば思いは収まりきらず、収まりきらない思いはときにすれ違いを生んでいきます。そんなすれ違いがいつか大きな歪(ひず)みとなったとき私たちは「言葉」の限界を知るのかもしれません。その限界を知ったときの思いが「言葉なんて役立たずだ」というものなのでしょう。


 しかし言葉によってすれ違い傷つく一方で、言葉によって生きる力をもらうこともまた事実です。それが「だけど知った言葉はいいね だから何度も言う愛してる」という歌詞に表されているのでしょう。ここで言われている「知った」とは、辞書的な意味を知識として知ったということではありませんでした。なぜなら、どれだけ辞書で「愛してる」という言葉の意味を知っても、それだけでは生きる支えとなる言葉にはならないからです。


 では、この「知った」とはどのようなことかと言うと、「愛してる」というその言葉では収まりきらない相手を想う大きな心を「自分に向けてもらった」ということなのでしょう。私たちは、ただの言葉ではなく思いのこもった言葉に出会っていくとき、初めてその言葉を「知った」と言えるのかもしれません。そして、その言葉が自分を支えるほど大切なものであったときその言葉を「何度も言」いたくなるのかもしれません。


 実は、「南無阿弥陀仏」のお念仏を「知る」ということも同じでした。どれだけ「南無阿弥陀仏」という言葉を辞書で調べても、そこに込められた思いに出遇(であ)っていかなければ本当にお念仏を「知る」ことはできません。実は、そのお念仏に込められた思いを聞いていくのが「お聴聞」でありました。そのお念仏に込められた思いを聞かせていただけば、「南無阿弥陀仏」とは、この私に向けて「あなたをどんなことがあっても見捨てたりはしない!」と阿弥陀さまが声となって思いを告げてくださっているお相(すがた)でありました。お念仏を称えれば、いつでもどこでも私を思う「言葉」が私に届いてくださる。それが私の本当の支えになっていくのです。


 言葉によって振り回され続ける私ではありますが、「南無阿弥陀仏」のお念仏の言葉を「知った」からこそ、たった六字の「南無阿弥陀仏」が私を本当に支える「言葉」となってくださるのでしょう。そして、お念仏が本当に私を支えてくださる「言葉」であるからこそ「何度も」「南無阿弥陀仏」と称えさせていただく人生を歩ませていただくのでしょう。


  「 言葉なんて役立たずだと ずっと大事にしてこなかった

    だけど知った言葉はいいね だから何度も言う『南無阿弥陀仏』 」



称名



2021年10月31日日曜日

2021年10月の掲示板

 





 10月の上旬は残暑厳しく日中は半袖で過ごしておりましたが、中旬に入り急に11月並みの寒さになり急いで分厚いふとんを引っ張り出しました。ほんの数日の間に季節が大きく変わり身体がなかなかついていきません。けれども、中旬以降、朝晩の冷え込みがようやく秋らしくなったおかげで、境内のイチョウやカエデがやっと紅葉の準備を始めたようです。11月末にはいよいよ報恩講を迎える予定です。その頃にはキレイに境内を染めてくれることを楽しみにしながら過ごして参りたいと思います。


 さて、今月の掲示板の言葉は、児童精神科医であられた佐々木 正美(まさみ)さん(1935‐2017)の言葉を書かせていただきました。この言葉は、佐々木さんの著『なやみはつきねんだなぁ』において相田みつをさんの詩を紹介し解説されていた中で述べられた言葉です。精神科医としてたくさんの人の心と向き合ってこられた方の言葉だからこそ説得力を感じます。そしてこの言葉の中に、私たちが浄土真宗のみ教えを聞かせていただくことの大切さが示されているように思います。


 そもそも、浄土真宗というみ教えは何のためにあるのかと言えば、私たちの心や生き方が豊かになるためにあるものです。そのみ教えについて中国の善導大師というお方は、み教えとは己自身を映し出す鏡のようなものであると仰います。普通の鏡は、私たちの姿を映し出してはくれますが、心の内側までは映し出すことはできません。その心の内側までを映し出してくれるもの、それがみ教えなのだということです。


 では、なぜ己自身を知らされることで心や生き方が豊かになるのでしょうか?実は、それを示してくださっているのが今月の言葉だと思うのです。一つずつ順を追ってみていきたいと思います。まず、浄土真宗というみ教えの鏡は私をどのように映し出してくださるかというと、私を「煩悩具足の凡夫」であると示されます。つまり、完璧ないのちではないし、逆に縁さえ整ってしまえばなにをしでかすか分からない危うさを持ったいのちである、ということです。言い換えれば、私の周りで起こる誰かの失敗や過(あやま)ちはすべて他人事ではないんだ、ということです。


 私自身がそのような存在であると知らされ、誰かの失敗を見て、「もしかしたら自分がしたことかもしれない」と思えたとき、はじめて相手を許すことができるのかもしれません。そんなふうに、私の本当のありさまを知らされれば知らされるほど、実は他者への心が開かれ、相手に共感する心と過ちを許す心が育てられていくのです。そして、それこそがまさに浄土真宗というみ教えが導いてくださる心豊かな世界なのでしょう。


 けれども、いたらない自分を受け止めていくということはとても難しいことです。では、なぜみ教えを聞くことで自分のいたらなさを受け止めることができるのかと言えば、それは阿弥陀さまが私のいたらなさもすべて受け止めていてくださるからでした。つまり、「いたらない私も含めてまるっとすべて受け止められている」という安心感の中にあってはじめて、私たちは自分のいたらなさと正面から向き合っていくことができるのでしょう。そして、そうやって向き合い受け止めさせていただくことができるからこそ、他者のいたらなさにも心開いていくことができるのでした。


  「 人間の「うそやごまかし」を許せる人は、

    自分のなかのそれをよく知っている人であろう。 」


 他者の失敗を何もかも許せるようなできた人にはなかなかなれそうもありませんが、せめてみ教えを聞かせていただき、いたらない私であると知らされる中で、ただ責めるのではなく、「自分も同じ失敗をしていたかもしれない」と相手の気持ちを汲(く)み取ろうとすることはできるようになりたいと思います。

 

合掌


誓林寺
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2021年9月30日木曜日

2021年9月の掲示板

 


 9月に入り、お彼岸に近づくにつれ、空には秋らしいうろこ雲がたなびくようになってきました。そして、今年もちゃんとお彼岸の時期になると彼岸花が咲き出し、そこかしこをキレイに飾ってくれました。彼岸花を見るたびに時季を違(たが)えないすごさを感じます。これからは日が短くなる一方ですが、反対に長くなっていく夜の落ち着いた時間も大事にしながら過ごして参りたいと思います。


 さて、今月の掲示板の言葉は、仏教詩人である坂村真民(さかむら しんみん)さん(1909-2006)の『安らぎ』という題の詩です。「あんな」とおっしゃっているところに、実際に「帰ってゆく処(ところ)がわかっている」人を前にして詠まれた実感のこもったおうたであったんだなぁということが伝わってきます。

 その「帰ってゆく処」とは、もちろん「自分の住まい」ということも言えるかもしれませんが、坂村さんが仏教詩人であることを踏まえると、ただ住まいのことを指しておられるわけではなさそうです。では、坂村さんのおっしゃる「帰ってゆく処」とはなんなのでしょうか。それはきっと、「いのちの帰ってゆく処」、つまり、私のいのちに「本当の居場所」を与えてくれる拠(よ)り所のことなのでしょう。


 「居場所」とは、自分のことを受け入れてくれる場のことを言いますが、ある程度は自分で作っていくこともできます。たとえば、お金を払ってチケットを買えば球場や映画館などで「私の席」という「居場所」がもらえます。あるいは、頑張って就職活動をして会社に雇ってもらえば、私が働くことができる「居場所」がもらえる、ということも言えるのかもしれません。けれども、どちらとも無条件で「居場所」がもらえるわけではありません。お金を払わなければ球場にも映画館にも入ることすらできませんし、会社もどんな人も雇ってくれるわけではありません。


 けれども「本当の居場所」とは、地位や名誉や財産など私が積み上げてきたものすべてを取っ払って、丸裸になってもなお私のことを受け止めてくれる存在がいる場所でした。つまりそれは、自分の努力で勝ち取っていく「居場所」に反して、私の努力や能力に関係なくただただ無条件に与えられていく「居場所」でありました。無条件に与えられるからこそ、「居場所」を失うことにおびえずにゆったりと安心してこの身をゆだねていくことができるのでした。


 そして、浄土真宗というみ教えを聞くものにとっては、無条件でどんな私も受け止めてくださるのが阿弥陀さまであり、その阿弥陀さまが「本当の居場所」として与えてくださるのが「お浄土」という世界でありました。自分を偽(いつわ)らず、また、背伸びをせずともありのままの私を受け止めてくださる「お浄土」という「いのちの帰ってゆく処」を知らされていくとき、評価や比較の世界から解き放たれていきます。だからこそ、大きな安らぎの中で自然とやわらかな「いい」表情へと変えられていくのでしょう。


  「 帰ってゆく処が

    わかっているから

    あんないい顔になるのだ

    あんないい目になるのだ

    あんな安らぎの姿になるのだ 」


 評価や比較の社会の中で生きていかなければならない現代だからこそ、お互いさまに「お浄土」という評価や比較ではない私の「本当の居場所」をしっかりと心にいただきながら過ごして参りたいと思います。


合掌


誓林寺
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2021年8月31日火曜日

2021年8月の掲示板



 お盆を過ぎたあたりから、境内のセミの鳴き声もアブラゼミからツクツクボウシに少しずつ移行し、夕方になれば涼しくなった風に乗ってヒグラシの哀愁を誘う声が山から聞こえてきます。忙しい毎日に追われているうちに、いつの間にか夏もピークを過ぎ、ゆるやかに秋に向かおうとしています。暑ければ暑いでグチがこぼれますが、過ぎ去ってしまうと思うと少し寂しくもあります。残暑にひそむ夏をあと少し味わいながら過ごして参りたいと思います。


 さて、今月の掲示板の言葉は、以前にも紹介した詩人の岩崎 航さん(1976~)の同じく『点滴ポール 生き抜くという旗印という本の中にある詩の1編を書かせてもらいました。ベッドの上で、いのちと向き合ってこられた岩崎さんの「目標」とも読めるような詩です。「自分の心弱さ」ではなく「人間の心弱さ」と言われているところに、この詩の深さを感じます。今月もこの詩を通しておみ法(のり)を味わってみたいと思います。


 人は、他人の弱さに気付くのは意外と上手です。それは、無意識のうちに「少しでも他人より優位に立ちたい」という思いがあるからなのかもしれません。けれども、その弱さを「見つめ抜く」ということはなかなかできることではありません。なぜなら、他人の弱さを「見つめ抜く」ということは、その人の弱さの背景も知っていくことになりますから、究極的に言えば、相手のすべてを知ることを意味するからです。そして、相手のすべてを知るためには、それだけの智慧と相手の弱さを知ってもなお受け止めるだけの心の深さがなければかないません。


 究極的な話でなくても、少なくとも相手のことをある程度受け止めることができなければ、相手の弱さをちゃんと「見つめる」ことはできません。そしてそれは、自分自身の弱さに対しても同じことが言えるのかもしれません。ある程度までは自分の弱さも受け止めることはできますが、なかなか受け止めることができないから「弱さ」とも言うのでしょう。だから、私は自分の弱さを「見つめる」ことがなかなかできませんし、まして「見つめ抜く」ことはとても困難です。


 そんな中にあって、究極的に私のいのちの弱さを「見つめ抜いて」くださった方がいらっしゃいました。それが阿弥陀さまでありました。阿弥陀さまは、私のいのちを長い時間をかけてまことの智慧でもって見つめ抜き、私の知らない私まで、すべてしっかりと知っていてくださる仏さまです。それはつまり、阿弥陀さまは、ときに自分でも持て余すこの私自身のすべてを受け止めてくださっているということでもありました。


 阿弥陀さまは、どんな私であってももうすでに受け止めてくださっているからこそ、何があっても決して動じないという「強さ」がありますし、その「強さ」ほど私にとって心強いものはありません。そしてまた、私の「弱さ」を知っているからこそ、私の危うさを何よりも分かっていてくださるのも阿弥陀さまでありました。だからこそ、「私」を絶対的な価値基準にすることに対しては一切の妥協を許さず否定されるという「厳しさ」もあります。


 その「厳しさ」も、本当の意味で私を支えるための「優しさ」であり、私のすべてを受け止めることができる「強さ」がそのまま私を包む「優しさ」でもありました。そして、この「強さ」「厳しさ」「優しさ」の根底に流れているのは、大前提としてすべてのいのちを「大事ないのち」と見つめてくださる心の「豊かさ」でありました。私たちはこの豊かな眼差しの中にいて初めて、弱さを含めた自分とも向き合うことができるのでしょう。


 「 人間の心弱さを

   見つめ抜いた

   その上での

   強さ 厳しさ

   豊かさ 優しさ 」


 私のすべてを知り抜いた上で、このいのちを引き受け支えてくださっている阿弥陀さまの眼差しに大きな安心を感じながら、私なりに一生懸命この人生を歩ませていただきたいと思います。


合掌


誓林寺
http://seirinji.main.jp

2021年7月30日金曜日

2021年7月の掲示板



 梅雨が明けると一気に夏になりました。午前9時頃にはもうすでに外ではじっとしていられない暑さになり、空気も揺らめいて見えます。境内では、そこかしこでその暑さをそのまま音にしたかのようなセミたちの「ミンミン…ジリジリ…」という声が鳴り響いています。セミたちの ” いのちの音 ” を聞きながら、今月も過ごして参りたいと思います。


 さて今月の掲示板の言葉は、以前にも掲示板で紹介したことのある大阪の仏教詩人、榎本 栄一さん(1903-1998)の『あるく』という題の詩です。自分のいのちを支えてくださる存在があることの有難さを素直に詠んでくださったそんな詩です。榎本さんはこの詩で、「支えられる」という表現のかわりに、「見ていてくれる」「照らしてくれる」という言葉を使っておられます。そんなことに注目をしながら、少しおみ法を味わってみたいと思います。


 まず、「見ていてくれる」ということがどうして支えになるのか?ということですが、この誰かの視線の中にいることの安心感というのは、息子の姿を見ているとよく分かります。息子も今月で2歳になり、ずいぶんと1人で遊べることが増えてきました。部屋で一緒にいると、私のことは忘れているんじゃないかというくらいとても集中しておもちゃで遊ぶので、ちょっとだけ離れようとすると息子は慌てて手を止めて私を追いかけてきます。

 そんな息子の姿を見たときに、何をするわけでもないけれども、” ただそこに一緒にいて自分を見ていてくれる ” ということが息子にとってどれだけ大事なことなのかということを知らされます。息子にとって、何か出来たとき(嬉しいとき)や何か困ったとき(悲しいとき)にすぐに言えるところに親がいるということが何よりも安心できることなのでしょう。そして、そんな安心があるからこそ、1人黙々と遊びに集中することができるのでしょう。


 そのように「見ていてくれる」と言ったとき、そこには誰かが一緒に居てくれるということが秘められています。しかも、ただ一緒にいるだけではなく、その人が ” 私 ” に注目していてくれるからこそ、嬉しい気持ちも悲しい気持ちも見て「知ってくれている」、そんなことがこの「見ていてくれる」という言葉の中には含まれています。自分の気持ちを分かってもらえることほど嬉しいことはありませんし、安心できることはありません。だからこそ、「見ていてくれる」ことが私の支えになるのでしょう。そして、「見ていてくれる」ということそのこと自体が、私を「照らしてくれている」ということなのかもしれません。


 そしてまさに、片時も離れずに私のことを「見ていてくださる」「照らしてくださる」のが阿弥陀さまでした。「南無阿弥陀仏」のお念仏が、いつどこでどんな風に称えても出てきてくださるのは、阿弥陀さまが私から一瞬たりとも離れず目を離さずにいてくださるからでありました。だからこそ、私たちはお念仏を称える度に、「あぁ、阿弥陀さまは私のことをちゃんと見ていてくださるなぁ」と感じていくことができるのです。


 「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えながら日暮らしさせていただくとき、私たちは「阿弥陀さまに絶えず見つめられている人」であることを知らされていきます。どんなときも見られているということは、私の恥ずかしい姿も知られているということですから、一方では背筋が伸びることでもありますが、しかし、絶えず見られているということを知ることは、私の人生の上に ” 独り ” という瞬間が全くなくなっていくということでもありました。つまり、「絶えず見つめられる」ということは、「分かってもらえない」という ” 孤独 ” から救われていくことでした。そして、「分かってもらえる」からこそ、なんとか「くじけずに」やっていけるのかもしれません。


  「 私を見ていて下さる人があり

    私を照らして下さる人があるので

    私はくじけずに 今日を歩く  」


 くじけそうなことばかりの毎日ですが、お念仏にこのいのち照らされながら、一日いちにちを丁寧に歩ませていただこうと思います。


称名


誓林寺
http://seirinji.main.jp

2021年6月30日水曜日

2021年6月の掲示板

 



 梅雨の晴れ間の日差しがすっかり夏じみてきました。いよいよ夏がせまる中、境内に咲くアジサイたちは同じ株でもどれひとつとして同じ色はなく、今年もいろんな色で境内をキレイに彩ってくれています。雨が降れば、そのアジサイの上で、オタマジャクシから無事に成長した小さなカエルたちが嬉しそうに跳ね鳴いています。さまざまないのちの営みを感じながら今月も過ごして参りたいと思います。


 さて、今月の掲示板の言葉は、愛知県出身の詩人、伊藤 千秋(旧姓:小山)さん(1970~)の『一日』という題の詩を書かせてもらいました。素朴な言葉の中にあたたかなものを感じることができるそんな詩です。この詩を読んでいると、前の日にケンカをしても、「おはよう」と言葉を交わしたならば、スッと心が近づいて仲直りできるような、しょんぼりしていても、元気な声で「おはよう」と声をかけられたなら元気をもらえるような、そんな不思議な力が「おはよう」という言葉にはあるような気がしてきます。

 そんな風にこの詩では、お互いに「おはよう」とあいさつを交わすという何気ない場面から、心が通い合うことのよろこびが切り取られ詠まれています。そしてまた、あいさつを交わすのは、日常の中のほんの些細な瞬間かもしれませんが、その些細な瞬間が実は、「一日」を「うれしく」させるほど大切なことなんだ、という風にも読めてきます。


 そんな大事な「あいさつ(挨拶)」は実は仏教用語なのだそうです。「挨(あい)」は「押す」、「拶(さつ)」は「せまる」という意味で、相手の心に押し迫ること。つまり、禅の師匠が弟子に押し問答をして悟りの深さを探ることを「挨拶」と言います。そこから意味が派生して、現在使われているような、誰かに会ったときや別れるときに交わす言葉のことを「あいさつ」と言うようになったそうです。その「あいさつ」の語源からうかがえば、「おはよう」という言葉にもきっと「相手の心に押し迫る」というはたらきがあるのでしょう。つまり、「おはよう」と声をかけられたとき、私の心が押し開かれていく。そして、その押し開かれた私の心が「おはよう」と応えていくとき、相手の心もまた押し開かれていきます。そうやって互いに心開かれていくからこそ、あいさつを通して心通わせ合っていくことができるのかもしれません。


 さて、人と人が心を開き合う言葉が「おはよう」ならば、私と阿弥陀さまの心が開き合う言葉は「南無阿弥陀仏」のお念仏でした。「南無阿弥陀仏」と阿弥陀さまの声が私に聞こえるとき、私の心は、自己中心的な思いに閉じこもっている殻を破られ、まことの世界に心開かれていきます。具体的に言えば、私が腹を立てたり、過剰に自信を持ちすぎたり、逆に思い通りに行かなくて悲しんだり落ち込んだりするのは、全部自分の思いにとらわれすぎることによって起こってくることです。そんな私に阿弥陀さまはお念仏となって、「南無阿弥陀仏 また自分の思いにとらわれていないか?」と問いかけてくださるのです。そうやって、自分の思いの中に閉じこもれば閉じこもるほど苦しみを生んでいく私の心を開いてくださる言葉、それが「南無阿弥陀仏」のお念仏でした。そして、心開いてもらった私が阿弥陀さまに「ありがとうございます」と応える言葉も「南無阿弥陀仏」でありました。

 そしてまた、私から阿弥陀さまへ自分では消化しきれない苦しみ悲しみの心を吐露し開いていく言葉も「南無阿弥陀仏」でありました。私が阿弥陀さまに「南無阿弥陀仏」とわが心を開いていくとき、阿弥陀さまもまた心を全開にして「南無阿弥陀仏 あぁ、そうか。苦しかったね。悲しかったね」と私の苦しみ悲しみを受け止めてくださるのです。そうやって、お念仏を通して阿弥陀さまの心のぬくもりにも触れていくのでした。ですから、お念仏を称えるということは、阿弥陀さまと心を通わせながら、対話をし、まことの心に触れていくということでありました。そんな阿弥陀さまと私のやりとりをこの詩に寄せて詠むならば、


「 なもあみだぶつ

  その声がきこえるだけで

  なもあみだぶつ

  その言葉にこたえるだけで

  ちゃんと ありがたい 一日になる 」


ということになるでしょうか。お互いさまに「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」とお念仏を称え、阿弥陀さまと心通わせながらまことに触れる「ありがたい」1日いちにちを過ごしていくことができたら嬉しいなと思います。


称名


誓林寺
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2021年5月24日月曜日

2021年5月の掲示板

 



 例年よりずいぶん早く梅雨入りし、五月晴れとは正反対の空模様が続いています。けれども、新緑のみずみずしい色から少しずつ深まりを見せすっかり落ち着いた山の色は、梅雨の雨でホコリも落ち、さらに山の表情をくっきりとさせています。若く明るい緑は見るものに活力を与えてくれますが、成熟し深まる緑は私たちに落ち着きを与えてくれるようです。コロナと雨で心がそわそわしがちな時季ですが、悠然とたたずむ山々に心を落ち着かせてもらいながら過ごして参りたいと思います。


 さて、今月の掲示板の言葉は、「RADWIMPS(ラッドウィンプス)」というアーティストの『大丈夫』という歌の歌詞から書かせてもらいました。この曲は、2019年に公開された『天気の子』というアニメ映画の曲として書き下ろされたものです。この曲を映画の中で聞いたときに、この歌詞がとても胸に響きました。そして同時に、これはまさに阿弥陀さまのおはたらきに重なるなぁと感じました。言葉自体は難しくありませんが、この歌詞が言わんとしている心をみ教えに寄せながら味わってみたいと思います。


 まず「大丈夫」という言葉ですが、この言葉には「あぶなげがなく安心できるさま。まちがいがなくて確かなさま」という意味があります。また仏教では、さとりを目指す「菩薩(ぼさつ)」のことを「大丈夫」と呼ぶこともあります。まさに聖道門(しょうどうもん)と言われる自分を鍛え高めながらさとりを目指す仏教は、「私が大丈夫になる」ことを目指していると言ってもいいのかもしれません。それはつまり、自分の人生の上に起こってくるすべての出来事を自分一人きりで受け止め切っていくということなのでしょう。


 けれども私はと言えば、日常の小さな出来事でさえ受け止めきれずに右往左往し、悩み心苦しい日々を送っています。そんな私が「大丈夫になる」ことは到底かないそうにありません。そして、そんな私に対して「大丈夫になれ」という言葉ほど酷(こく)なものはありません。だからこそ、阿弥陀さまは私に「大丈夫になれ」とは仰いませんでした。阿弥陀さまは、大丈夫になれない、つまり苦しみも悲しみも自分では受け止めきれない私がここにいると見抜いてくださったからこそ、「そのあなたの受け止めきれない苦しみ悲しみを受け止め支えられる存在になりたい」と願ってくださったのでした。そして、その願いが願いの通りに完成し届いてくださっているすがたが「南無阿弥陀仏」のお念仏でありました。


 阿弥陀さまは、私がお願いしたからお念仏となって届いてくださっているのではなく、私がたのむより先に阿弥陀さまの方から「私がいるから大丈夫」と届き支え続けてくださっているのです。だからこそ、私が苦しい現実から目を背け逃げたとしても、悲しみに押しつぶされても、その私をそのまま包み込み「私がいるから大丈夫」とお念仏となって喚(よ)びかけ続けてくださるのです。その喚び声に支えられ続ける中で、ひとりでは大丈夫になれない私が自分の人生と少しずつ向き合っていくことができるのでしょう。


  「 君を大丈夫にしたいんじゃない

    君にとっての「大丈夫」になりたい 」

 

 私の代わりに私の人生を受け止めきることができる「私にとっての『大丈夫』」になってくださった阿弥陀さま。その阿弥陀さまのあたたかな喚び声の中を、私なりに右往左往しながらも精一杯生かさせていただきたいと思います。


称名


誓林寺
http://seirinji.main.jp

2021年4月26日月曜日

2021年4月の掲示板

 



 4月も後半になりましたが、今年の春は全体的にいつもより2週間ほど早く季節が巡っているらしく、例年はゴールデンウイークあたりに咲き出すつつじも藤もすっかり咲いてしまい、気温も春というよりは初夏のようです。そのような中で、田んぼの作業もいよいよ本格化し、水を引き始めた所もあり、そこかしこでカエルが嬉しそうに鳴いています。この時期にこれだけ暑くなると夏はどうなるんだろうと心配になりますが、少しずつ暑さに身体を慣らしながら過ごして参りたいと思います。


 さて、今月の掲示板の言葉は、さまざまな植物が色とりどりに咲き誇るこの時期に味わいたい言葉を書かせてもらいました。この言葉の作者は分かりませんが、今月もこの掲示板の言葉を通して少しおみ法を味わってみたいと思います。


 さまざまな感覚器官を使って、身の回りの物を確認しながら生きている私たちにとって、自分に感じられる、確認できるということほど安心できることはありません。中でも五感のうち、8割以上を視覚に頼っていると言われている人間にとって、やはり「見える」あるいは「目で確認できる」ものに頼りがちです。けれども、じゃあ目に見えないものは安心できないもの・信頼できないものなのかというとそうではありませんでした。

 そうではないものの1つが「力(はたらき)」です。私たちの目には「力」そのものは見えません。けれども、モノが動いたり止まったり変化することで、そこに「力」を感じていくことができます。そして、実はその目に見えない「力」こそが私のいのちを支えているのです。またここで大事なことは、私たちが「力」を感じることができるのはいつでもその「力」がはたらいて変化した後、つまり、いつでも「力」が先手ということです。


 植物は自分の力で光を集め土から栄養を吸収し花を咲かせますが、ここで言われている「花を咲かす力」とは植物自身の力ではなく、もっと大きなところから植物そのものを突き動かすようなはたらきのことを言っておられるのでしょう。そしてその大きなはたらき(力)を私たちは「春」と呼ぶのです。先ほど触れたように「力」はいつでも私が感じるより先ですから、花が咲くから春になるのではなく、春というはたらきによって花が咲くのでした。


 同じように、私たちはひとり一人精一杯自分の力で生きていますが、より大きなところから先手ではたらき、私たちのいのちそのものを突き動かし支える力のことを「仏」というのでした。ですから「仏さま」とは、お寺やお仏壇にご安置されているような ”姿” のことではなく、私のいのちを「人となす」 ”はたらき(力)” のことを言うのでした。でも、はたらきは目には見えませんから、その見えぬはたらきを形として示してくださったのがお寺やお仏壇のお立ち姿の阿弥陀さまという仏さまなのです。


 では、ここで言われている「人となす」とはどのような意味なのでしょうか。それぞれにいろんな味わいがあるとは思いますが、私は今、この「人となす」とは、「私が自分の人生を真正面から受け止めることができること」、つまり、「生まれてきてよかった。」と自分が人として生まれてきた人生に納得できる "いのちの視点(智慧)" を恵まれることと受け止めさせてもらっています。


 私たちは思い通りになることは比較的納得しやすいです。けれども私たちの人生は、思い通りにいくことよりも思い通りにならないことの方がはるかに多いです。そして、ときには自分ひとりでは受け止めきれないほどの悲しみにも出会っていかなければなりません。その自分ひとりでは受け止めきれないものと正面から向き合うために、一緒にその悲しみを背負い、乗り越え受け止めていくだけの智慧を与えてくださるのが「南無阿弥陀仏」のお念仏の仏さまでした。

 私の口からお念仏が出てくださるのは、阿弥陀さまが先手で私にはたらいてくださっているということでありました。ですから、お念仏を称えたから阿弥陀さまがはたらいてくださっているのではなく、私の口からお念仏が出ているということが阿弥陀さまのはたらきの中にあるということであり、まさに、お念仏を申しながら生きる人生を歩む中に、大きなはたらきによって自然と自分の人生をしかと受け止められる(人となる)人生が恵まれていくのでありました。


 「 花咲かす 見えぬ力を 春という

   人となす 見えぬ力を 仏という 」


 目には見えなくても、お念仏が出てくださっている ”今” ”ここ” に、まさに阿弥陀さまの私のいのちを支えるはたらきを感じながら過ごして参りたいと思います。


称名


誓林寺
http://seirinji.main.jp

2021年3月30日火曜日

2021年3月の掲示板

 



 春分を過ぎて寒さも和(やわ)らいできました。それを見計らっていたかのように境内の桜はどんどんつぼみを膨らませ4月を前にとうとう満開になりました。薄ピンクの花を目の前にすると、理屈なしに「春」を感ぜずにはいられません。桜を咲かせた春の陽気に誘われて散歩をすれば、近所の田んぼでは冬の眠った土を掘り起こすトラクターが動いています。暖かくなったからといって冬でなまった身体を急に動かして壊さぬよう、身体も丁寧に準備手入れをしながら過ごしてまいりたいと思います。


 さて、今月の掲示板の言葉は、詩人の岩崎 航(いわさき わたる)さん(1976~)の『点滴ポール 生き抜くという旗印』という本の中にある詩の1編を書かせてもらいました。3歳で進行性の筋ジストロフィーを発症され、病気の苦しみと闘い、また病状が進行するにつれできることがどんどん減っていく中で、自身の「いのち」と真っ向から向き合ってこられた岩崎さんの詩は、1編5行の詩でありながら、一つひとつの言葉に生き抜く力強さと説得力を感じます。この詩も、自分の心と丁寧に付き合ってこられたからこそ紡(つむ)ぎ出された言葉なのでしょう。


 ところで、「耕す」と言えば、お釈迦さまにまつわるこんなお話があります。ある時、お釈迦さまが托鉢(たくはつ:食べ物の供養を受けること)をしていると、バーラドヴァージャという人が収穫した食べ物を配っているところに出会われます。お釈迦さまもその供養を受けるためにその人のそばに立たれます。すると、バーラドヴァージャはお釈迦さまに向かって、「みんなは種をまき、田んぼを耕して(=仕事をして)食べ物をもらっているんだ。あなたも種をまき田んぼを耕したらどうだ。」と揶揄(やゆ)します。これに対してお釈迦さまは、「私は仏法を説くことで信仰の種をまき、心を耕し、さとりを開くというこの上ない実りを届けているのだ。だから私は食べ物の供養を受けるのだ。」と応えられたのだそうです。


 潤いを失い寒さで凍った冬の田んぼの土は固いですが、軽い衝撃でボロボロとひび割れ崩れてしまいます。その固く乾いた土では植物は十分に根を伸ばすこともできず、のびのびと成長することもかないません。それは、私たちの心も同じでした。「私の思い」に閉じこもり荒(すさ)んだ心は頑(かなく)なで、なかなか自分以外の言葉が聞けず、閉じこもれば閉じこもるほど苦しくなって、ちょっとしたことで「いつのまにか ひび割れ」てしまいます。だからこそ、固くなってひび割れる前に、あるいは大事な言葉が聞こえなくなる前に、こまめに「心の田んぼ」を「耕す」ということが大切になってくるのでしょう。


 では「心の田んぼを耕す」とは具体的にどうすることなのかと言えば、仏教徒にとってはお釈迦さまが仰ったように仏法に出遇(であ)うことでありました。なかでも、浄土真宗において仏法に出遇う・「心を耕す」というのは「南無阿弥陀仏」とお念仏を称(とな)えることに他なりませんでした。お念仏を称えるということは、阿弥陀さまの「まこと」を知らせる声を聞くということです。それはつまり、「私の思い」に閉じこもり暗く狭くなってしまった私の心に阿弥陀さまの智慧という鍬(くわ)が入り、頑ななわが心が解きほぐされ、大事なもの・幸せに気付くことができる心の土壌が育まれていくということでした。そうやってお念仏によって耕された心には、私のいのちを支える仏法という木が大きく根が張り、阿弥陀さまの「まこと」を知らせる声に導かれながら生きる明るく広い世界が開かれていくのでした。


  「 いつのまにか

    ひび割れぬよう

    心の田んぼ

    耕していく

    黙々と    」


 年度末の忙しさについつい阿弥陀さまのことを忘れがちな私です。でも、だからこそ、少なくとも朝晩にはお仏壇の前に座り、阿弥陀さまに手を合わせ、お念仏を称え、阿弥陀さまの声に触れていく生活を送りたいなと思います。そうやって忙しさに心固くならないよう、毎日毎日わがいのちに手入れをしながら過ごしてまいりたいと思います。


称名


誓林寺
http://seirinji.main.jp


2021年2月24日水曜日

2021年2月の掲示板

 



 今冬は寒暖差が激しく、冬らしい凍えるような寒い日があるかと思えば4月のような陽気でシャツ1枚で過ごせそうな日もあり、しかもそれが短い期間で入れ替わるので身体がなかなかついていきません。しかしながら、自然の植物は大したもので、この寒暖差にも騙されずしっかりと時期をみてそれぞれの花を咲かせ始めています。境内の梅も時期を違(たが)えずちゃんと咲き、野に咲く菜の花は、太陽の光を集めたような明るい黄色の花を輝かせています。立春が過ぎ、いよいよ来(きた)る本格的な春の訪れに胸躍らせながら、今月も過ごして参りたいと思います。


 さて、今月の掲示板の言葉は、童謡詩人の金子みすゞさん(1903~1930)の「お仏壇」という題の詩の一節を書かせてもらいました。金子みすゞさんらしい優しく平易な言葉の中に、仏さまとしっかりと対話をしながら生きておられた姿がにじみ出ています。そして、その優しい言葉の中に、浄土真宗のみ教えを聞く私たちにとって、とても大切な阿弥陀さまの受け止めが示されているように感じます。


 それは、「忘れていても、仏さま、いつもみていてくださるの。」という言葉に表されているように、阿弥陀さまは、私が阿弥陀さまを思っていようと忘れていようと、この私のことを片時も離れず見ていてくださる仏さまということです。そのような仏さまがいてくださることを聞き受けていく時、私は「何かを見つめていくいのち」でありながら、「仏さまに見つめられるいのち」でもあることに気が付かされます。


 私の見つめる世界は絶えず移り変わっていきます。それは物質的なことだけではなく、私の心も絶えず移り変わっていますから、その心を通して見える世界もまた常に変化しています。それは、仏さまを見つめるときも同じでした。私が阿弥陀さまを見つめるとき、心から「有難い」と思う時もあれば、どれだけご法話を聞いてもなかなか「有難い」と思えない時もあります。そしてまた、私が私自身を見つめるときも同じで、自信に満ち溢れているときもあれば、「なんて私はダメなんだ」と自分自身に落胆するときもあります。


 そんな中、阿弥陀さまは私をどのように見つめてくださっているかというと、阿弥陀さまは私のようにコロコロと変わることなく、どんな時も私のいのちを「尊い尊い大事ないのち」として見つめ続けてくださっていました。それは、私が阿弥陀さまを「有難い」と思おうと思わまいと、覚えてようと忘れてようと、自分に自信があろうとなかろうと決して変わることはありませんでした。この阿弥陀さまの決して変わらないいのちの視点の中で生きていくとき、私は何があっても決して揺らぐことのない「いのちの尊さ」をいただくことができるのでありました。


 そんな風に、私自身が「阿弥陀さまの見つめる私」として生きていくことを、浄土真宗では「ご信心」というのでありました。この「ご信心=阿弥陀さまの眼差し」は決して揺らぐことがないから、親鸞聖人は「ご信心」のことを「金剛心(こんごうしん)(ダイヤモンドのように堅く砕けない心)」と示してくださいました。そして、この阿弥陀さまの眼差しに出遇(あ)うことができたからこそ、思い出した時には「ありがと、ありがと、仏さま。」と阿弥陀さまに手を合わしお念仏を称(とな)えるのでありました。


  「 忘れていても、仏さま

    いつもみていてくださるの。

    だから、私はそういうの。

   「ありがと、ありがと、仏さま。」」


 絶えず変わり続けるこの世界だからこそ、どんなときも変わらない阿弥陀さまの眼差しの中をお念仏を称えながら生かさせていただきたいと思います。

合掌


誓林寺
http://seirinji.main.jp

2021年1月12日火曜日

2021年1月の掲示板

 



 いろんなことがありましたが、おかげさまで新しい年を迎えることができました。この度の年末年始には大型の寒波が押し寄せ、厳しい寒さの日が続いています。また、新型コロナウイルスのさらなる感染拡大により収束も一向に見えない状況になっており、今年は手放しで「あけましておめでとうございます」とは言いにくいお正月となりました。ただでさえ寒さで体調を崩しやすくなっていますので、お互いさまにできるだけ身体を冷やさないように、自分を労わりながら過ごして参りたいと思います。

 

 さて、今月の掲示板の言葉は、新年を迎えた1月らしいおうたを書かせてもらいました。このおうたは、私の滋賀の実家の大お婆さん(藤澤よね尾さん)が作ったもので、昨年この大お婆さんの50回忌をお勤めしたときに、「よね尾さんのこんなうたが出てきたよ」と教えてもらったものの1つです。私はよね尾さんに出会ったことはないですが、素朴なおうたを読んでいると、素直にみ教えに身をゆだねながらお念仏を称えている姿が目に浮かんできます。そんなおうたを今月もまた私なりに味わわせていただきたいと思います。

 

 このおうたは、初日の出が地平線(あるいは水平線)の下から何かに押し上げられるようにして出てくるように、私たちが称えるお念仏もまた、私の体の内側から阿弥陀さまのおはたらきによって押し出されるようにして出てくる、そんなことを詠まれたものなのでしょう。そしてまた、朝日昇るその雄大な姿に引かれるように思わずお念仏がこぼれ出た、そんな瞬間を詠まれたものとも受け止められそうです。どちらにせよ、この「おしでる」という表現の中に浄土真宗のお念仏の受け止め方が顕れているなぁと思います。

  

 一般的にお念仏とは「仏を念ずる」、つまり、私が仏さまに向かって心を整えて称えるものという風にとらえられています。もちろん、浄土真宗でもそのように言うこともありますが、宗祖親鸞聖人は、お念仏は「念じてくださる仏さま」なんだと教えてくださいました。つまり、私が仏さまを念ずるよりも先に、阿弥陀さまが悩み苦しみながら生きている私の姿を案じて念じてくださっている相(すがた)、それこそがお念仏なんだということです。


 人知れず悩みや苦しみを抱えながら生きていかなければならない私に、「その苦しみも悲しみも私がちゃんと知っているよ。私が一緒にその悲しみを背負っているよ。」と阿弥陀さまの方から私に告げてくださる相(すがた)がお念仏であり、私の口をして「南無阿弥陀仏」とお念仏申させたはたらきのことを「本願力(ほんがんりき)」と呼ぶのでした。そして、私の口をして「南無阿弥陀仏」とお念仏申させたのと全く同じはたらきによって、私のいのちはお浄土に生まれ、仏さまとならさせていただくのでした。だからこそ、お念仏が出てくださる「今」「ここ」で、「私は必ずお浄土に生まれ仏さまにならせていただくんだ。」と言わせてもらうことができるのです。


 私事ですが、最近、1歳半になる息子が、お念珠を持つと手を合わせて「なーん(南無阿弥陀仏)」と言うようになりました。その姿がなんとも嬉しく、また尊いなぁと感じます。1歳半の子どものお念仏の姿が尊いのは、だれがいつどこでどのようにお念仏を称えようと、全くおなじ阿弥陀さまという仏さまが出てきてくださっているからなのでしょう。そして、お念仏申すその姿が嬉しいのは、小さな小さなその体にも確かに阿弥陀さまのおはたらきが届いていることがお念仏を通して分かるからでありました。お念仏の姿の中に、阿弥陀さまのおはたらきを確かに感じていくことができる。それが浄土真宗というみ教えでありました。


 「 初日の出

   共におしでる

   お念仏 」


 全くおなじ阿弥陀さまのおはたらきをいただく「お同行」として、ともにお念仏がわが身から「おしでて」くださることを喜び合いながら、本年も過ごして参りたいと思います。


称名


誓林寺
http://seirinji.main.jp